夢の旅 決行! [歴史]
誰にでも思い描く”夢の旅”というものがあるのだろうと思う。
今回そんな旅のひとつが叶った!
沼田~名胡桃~岩櫃~上田~松代・・・
やれ、群馬~長野といふなかれ!
夢と言う割にはチープに思えるかもしれないが
ある一族を敬愛する者たちにはたまらないこのルート!
そう!
真田氏の城をめぐる旅である!!
題して
ほらっちょ氏と数年前から温めてきたこの企画がついに実現することとなったのだ。
ちなみにほらっちょ氏のブログ
山形おぐにの百姓生活
熱血!少年オヤジ伝説
ざっくりと「沼田城へ九時集合!」を合言葉に当日を迎えたわけなのだが・・・
早速 我が家の三十分の遅刻・・・
気合の入りまくったほらっちょ氏に一括されるトホホな船出となった。
まぁ~言い訳をすれば・・・目の前のトラックがトンネルの壁に擦りつくトラブルが・・・
いやいや、超安全策を取り高速道路を利用する超迂回路をチョイスした事が・・・
いや、それ以前に出発のゴタゴタで計画より出発が三十分遅れたのが直接の原因だけどねぇ~
旅っぷりのご報告は 今回はほらっちょ氏に任せて・・・
俺の城!では 今回めぐってきた城の紹介をしていきたいと思いま~す・・・次回からね
天正壬午の乱 [歴史]
天正十年(1582)三月に武田家が滅亡し、その旧領は織田家の統治下となった。
しかし同年六月の本能寺の変により織田勢力の去ったその旧武田領は
小勢力の国衆を巻き込んだ徳川・北条・上杉の争奪の場となった。
この一連の争乱が「天正壬午の乱」と呼ばれている。
冬は寒いので少しでも南の山梨県の城めぐりをしていると
案内によく「天正壬午の乱」の記述が見られる。
特に若神子城と新府城はこの地での合戦の北条と徳川の本陣となり
周辺の城を含めこの争乱のために改築された城跡もあり興味深い。
北条方の本陣が置かれた若神子本城
徳川方の本陣が置かれた新府城
・・・しかし・・・よく知らない・・・
そんなとき目にしたのが 平山優著「
天正壬午の乱
」 であった。
武田家滅亡から天正壬午の争乱の終結までを史料を編纂して解説した
まさに城めぐりの資料ともなる一冊である。
一年くらい読んでいるんだけど・・・まだ読み終えてないんだよねェ・・・
この本読み終えたら「天正壬午の乱の城をめぐる」にとりかかるかな?
でも疲れて読んでいると翌朝になってしまう、
まさに「睡眠導入之書」となりつつある・・・
妻女山陣場 [歴史]
永禄四年の川中島の合戦のときに上杉謙信が陣場としたとされる場所である。
かつては妻女山の山裾を千曲川が流れていたという。
松代城からもさほど遠くないし、自動車で直接行ける。
彼の場所からどのような景色が見られるのか興味津々である。
国道403号線を松代から屋代に向かって注意深く走っていると左手に妻女山への案内があるので
言われるがままに山へと登って行くと妻女山松代招魂社に行きつく。
この辺りが一般に妻女山と言われるあたりだ。
戊辰戦争で戦死した松代藩士の御霊を祀るために真田幸民が明治二年に建立した招魂社。
駐車場から招魂社を含めたこの辺りは陣場平と呼ばれている。
陣場らしくこんな演出も・・・
展望台があったので登って見る
じいさんと案内板に書かれているような事を話す・・・
今回もメジャーな合戦の舞台なので啄木鳥だの飯炊きの煙だのと余計な解説は省こう。
今来た松代方面
あの辺りが松代城(海津城)かな?
武田信玄が到着する前に海津城を攻略しようとした上杉謙信であったが守備が賢固であったため断念し、上杉軍は海津城を東に見ながら妻女山に登り陣をしいたという。
長野方面・・・善光寺平というのかしら?
多分この辺りが八幡原の史跡公園・・・
「妻女山」は本来「斎場山」であり甲陽軍鑑では「西条山」と記されている・・・らしい・・・
と、通称「妻女山」を見てきた訳だが実はここは「赤坂山」で「妻女山」はさらに尾根の上の方であるともいう。
斎場山古墳のあたりに謙信が床几を据えたとされる場所もあるという。
何にせよこの山に陣を構え武田信玄と対峙したという事であろうか。
事実なのか物語なのか・・・永禄四年の川中島の合戦には信玄と謙信が直接刃を交えたりと
鵜呑みにはできないような逸話があるのでこの妻女山ひとつとってもなんだかもやもやしている。
しかしその年に両雄の激突があった事は確かであろうし、激戦であった事も確かだ。
海津城にプレッシャーを与え、見通しのきくこの辺り一帯に
陣が構えられていたことも信じられる事である。
参考文献
長野郷土史研究会機関誌 長野 第140号 信濃の武田史跡(1)
宮坂武男著 図解 山城探訪 第十四集 補遺資料集 東北信版
武田勝頼 土佐へ行く!? [歴史]
地元紙である長野日報の記事に面白いものを見つけた。
「勝頼」通し地域交流・・・土佐や韮崎 深まり期待・・・土佐?
韮崎は新府中構想と新府城の兼ね合いから分かるのだが、土佐とはいかに?
天正三年(1575)長篠の戦で織田・徳川連合軍に敗れてから衰退の一途をたどり、天正十年(1582)織田軍に攻められ天目山で自害した・・・というのが定説であるのだが、実は・・・
同じ武田氏の系統の香宗我部家を頼って土佐へ落ち延び
名を「大崎玄番」と改め64歳まで生きたというのだ。
詳しい解説は「武田勝頼土佐の会」でお願いします・・・ちょっと筆不精な わ・た・し
http://katsuyoritosa.web.fc2.com/index.html
2008年に発足した高知の「武田勝頼土佐の会」に続き今年9月に諏訪の「由布姫・勝頼の会」、韮崎の新府中にらさきの会」が発足し交流を深めてゆくそうだ。
源義経が海を渡ってモンゴルへ逃れてチンギス・ハンになったとか・・・
大阪城落城のどさくさに豊臣秀頼とともに真田幸村が薩摩へ逃れたとか・・・
その類の話ではあるまいか?
でも、諏訪の人間としてはこの説を信じてみたい気持ちもある。
その伝承が本当であれば、歴史や人物の見方も少しづつ変わってくるかな。
勝頼一行を受け入れず裏切り者として悪評の小山田氏が
実は勝頼一行を逃がし自ら汚名を着たのであればかなり男前である。
明治の自由民権運動で有名な土佐藩出身の板垣退助
実は武田家家臣だった板垣信方の孫・乾正信を祖とする・・・と言われている。
父の改易から死によって幼くして甲斐から出る事になり、
後に活躍して山内家に仕え主家とともに土佐に渡った板垣退助の御先祖様・乾正信。
滅亡した主家の当主と功臣の孫が土佐で出会っていたのかもしれない・・・んな訳無いか!
偉大な父・武田信玄の勇名に埋もれがちな武田勝頼・・・
勝頼の代で武田家滅亡となってしまったので悪い評価をされてしまうのだが
歴史上の事件や合戦が定説から見直されている昨今
真実の武田勝頼を見直す良いチャンスなのではなかろうか。
今年の大河ドラマの影響で人気沸騰の土佐に逃れたわけではもちろんないのだが、
今、土佐に人々の注目が集まっている時だからこそこちらも注目を集めたい話題だ。
武田信玄は御柱祭を見たか!? [歴史]
御柱祭を記事にしていて、戦国期の御柱祭はどのように行われていたのだろうか、また諏訪を手中にした武田信玄は御柱祭にどうかかわったのだろうかと疑問がわいてきた。
武田信玄は先祖代々諏訪信仰であったことや政略的な理由から、諏訪大社の再興や神事の復興に大変尽力してきている。
そんな事からも御柱祭へのかかわりも気になるところだ。
ある歴史小説の中で武田信玄を表現するのに御柱祭が用いられていた事を思い出した。
以前に紹介した「是生滅法 小説箕輪城 長野業政と武田信玄」である。
どのような事が書かれていたのか・・・久々に読み返してみた。
武田信玄が三百ほどの手勢を率いて上原城から茅野長峰の岡の上へと御柱祭を見にゆく所からそのシーンは始まる・・・どうやら木落とし見物らしい。
それから御柱祭の説明があり、そして諏訪頼重が度重なる出兵からの疲弊や、度重なる飢饉から領民をおもんばかって御柱祭を中止したことから諏訪総領家としての人望を失なっていたことになっている・・・御柱祭の行われなかったことはなかったのでは・・・歴史小説だからしょうがないか。
勇壮な木落としや興奮する民衆に甲斐の将兵たちは度肝を抜かれ唖然としている中、
信玄は将兵たちに問いかける「おぬしたち、この奇祭をなんと見る」
急な問いに窮する部下たちの中で上原城代の板垣駿河守をはじめ高坂弾正や飯富兵部らが答えるのは「この熱気や力は戦に使える」という一点。
しかし信玄は「百姓にとって領主など誰でもよいのだと思うぞ」と言い
「百姓から僅かな楽しみを取り上げてはいかぬ。一つ二つでも与えておけば政治(まつりごと)などはどうでもよいのじゃ。力のある者の思うがままじゃ」と続ける。
ふだんどんなに租税を搾り取ろうと、凶作のときに僅かばかり恵んでやり日頃の憂さを晴らす工夫さえしてやれば百姓たちは善政だ名君だと讃えてくれる・・・と、この物語での武田信玄が見えてくる。
歴史小説に御柱祭が登場するのも珍しいので記憶していたのだがこんなシーンだったのね。
確かに凄まじい人の力に圧倒される祭りなので、諏訪を手中に収め諏訪大社復興に尽力した武田信玄と結びつけるのは、物語を組み立ててゆく上でとても魅力的だと思う。
しかし実際はどうだったのだろう?
武田信玄は御柱祭を見たのか?
素人ではとても調べられないので、
諏訪の博物館や史料館でそんな企画展やってくれないかなァ・・・
諏訪大社式年造営御柱大祭 [歴史]
信州諏訪大社で七年目毎の寅と申の年に宝殿を新築し、社殿の四隅のモミの大木を建て替える祭りがおこなわれている。
「諏訪大社式年造営御柱大祭」・・・通称「御柱祭」である。
御柱祭はかつては信濃の国をあげての大祭であらゆる建物の造営も行われてきたようだが、諏訪地域によっての御柱の曳と建てだけは残って来たようだ。
・・・といってももうすでに全行程終了し、柱はすべて各お社の四隅におさまっている。
タイミングを恐ろしく逃しているのだが、御柱祭の雰囲気はマダムと機長にまかせるとして・・・
興味深い話が幾つかあったので紹介したい。
御柱祭山出し初日は消防団員として地元の警備を行いながら、その合間に地元ケーブルテレビ局の御柱生中継を見ていた。
そんな中でお年寄りから思い出深い御柱として昭和十九年の御柱祭の話しが紹介されていた。
若い男衆は戦争にかりだされていて御柱の曳き手が足りないので、子供達が先生に引率されて御柱を曳きに行ったのだという。
戦前までは「男の祭」であったようなので女性が綱を曳いたり柱に乗る事は許されなかったらしい。
それゆえに子供たちが動員されたという記憶を残すこととなった。
また戦中か戦後の曳行への協力を見合わせた地区などは今もって主要な箇所の担当を任せてもらえない根深い遺恨があったりもする・・・
御柱祭には特殊な役割を担っている地区があるのも歴史を感じさせる。
伐採用具の清めから御柱となるモミの伐採を担当する地区や、御柱休め(今まで建てられていた御柱を抜いてその地区の神社へ運んで儀式を行う)から御柱を建てる穴を開けて建てられた御柱を埋めて固めまで行う地区もある。
また建御柱に必要な特殊な「七五三巻き」も伝承者に受け継がれているようで全ての御柱を担当している。
凄まじい人の力によって山から里におりてきて御神木となる御柱。
曳いている人たちの様々な思いが柱に宿るとしたらそれは強大なものであろう。
それから、今回は息子を連れての初めての御柱祭であった。
諏訪に生まれた男子として御柱祭にかかわってゆくのだろうが、まずはその一歩を踏み出した。
・・・母の血が騒げば強力な祭り男となるであろう・・・
金鶏金山 [歴史]
武田信玄が北方を除いて信州をほぼ攻略した永禄の頃(1558~)から発掘は始まったようだ。
ここ金鶏金山も武田家を支えた甲州金を産出した重要な金山のひとつであった。
甲州や信州の占領地から金掘り夫を連れてきて採掘をしていたようだ・・・というのも、
母方の御先祖様は佐久から連れてこられたそうなのだ。
ちなみに父方の御先祖様は武田家滅亡後甲州からやって来て、しばらく金を掘っていたようだ。
武田信玄の頃のつるし掘り跡が「この上すぐ」とあるからちょっと登ってみよう・・・
でも登り始めてちょっと心配になってくる・・・
しかし気が付くと辺りには無数の擂鉢状の穴の跡が・・・どうやらこれらが露天掘りの跡らしい。
横穴の坑道を掘って採掘する技術は武田信玄の頃にはまだ無く、
縦穴を掘って採掘をしていた・・・と、何かの本で読んだ記憶がある。
ここ金鶏金山ではこの採掘方法を「つるし掘り」と呼んでいるようである。
大分風化してしまってはいるが確かにここで金が掘られていたのだ。
林道下にも遺構があるようなので行ってみよう。
通路脇から沢沿いに屋敷跡や人夫小屋跡の削平地が見られる。
しばらく歩いて行くと開けた場所に出る。
その少し山側に不動明王がこちらに睨みをきかせている・・・でも案内には不動明王の碑とある?
どうやら碑文には明治31年に認可された採掘許可が記されているようだ。
いちばん開けている辺りに事務所跡がある・・・この辺りは明治期以降の遺構であろうか。
戦後まで人を変えては幾度にも創業されてきたようだ。
事務所跡の下には焙焼炉の跡と水車場の跡があった。
焙焼炉で焼いた鉱石を水車の力で砕いて・・・
事務所跡と焙焼炉の間に設けた水路に藁で編んだ筵(むしろ)を敷いて、そこに流した。
そうすると砂だけが流れて莚の目に金だけが残り、それを精製したという。
藁で編んだ筵を「ねこ」と言う事から「ねこ流し水路」と呼んだそうだ。
この他にも武田抗・弁天鋪抗跡、川下に鶴抗・亀抗跡があった。
父方の御先祖様も、母方の御先祖様も八ヶ岳の麓に雪のあまり積もらない所を見つけた。
またその辺りには水があるらしく光り輝いていたともいう。
しかしその辺りは諏訪明神の狩場(神野)で人の住んでよい土地ではなかった。
ちょうどその頃、戦の世は終わり諏訪高島藩主・諏訪頼水は内政に力を入れ、諏訪湖の干拓や新田開発を行って石高を上げようとしていたのだった。
御先祖様達四名は頼水公より開発の許可を得て、彼の地へと住み着いたのだった・・・
日当たり良く温暖な土地で雪も早く消える・・・
それはただ寒風強く吹き雪も積もらない極寒の土地だったのだという。
そんな先人達からの苦労が実り、今ではとても住みやすい素晴らしい土地となっている。
突然思いつきで金沢林道を登ってここへ来たのだが、400年前の御先祖様達の熱い思いを感じるためにここに呼ばれたのではないかと思えてならない。
企画展「南信州の山城」 [歴史]
飯田市上郷考古博物館で催されている「南信州の山城」である・・・
とはいうものの、ネタが少し古いので11月29日で終了してしまったのだが・・・
11月の最終週に時間をつくって飯田へと出かけてきた。
せっかく飯田まで行くのだから途中でちょっと寄道をしたりして。
先ずは松川町の大島城
武田氏の拠点として改修された城で、丸馬出が良く残っている。
岩村城で処刑された大島氏はこの辺りの豪族である。
大島城めぐりは後日記事にします・・・何時になるのやら。
そして飯田城・・・二の丸跡にある飯田市美術博物館
ここで「飯田城ガイドブック」を購入して飯田城めぐりをしようとしたのだが・・・
大島城ではしゃぎ過ぎて時間の余裕がなく、泣く泣く本の購入のみ。
そして今回の本当の目的である企画展「南信州の山城―戦国に生きた人びと―」が催されている
飯田市上郷考古博物館へ
南信州には中世に築かれた城館跡が150あまりあるそうで、それらの発掘から見えてくる城館の姿や、そこに暮した人々の営みが発掘物やパネルなどで紹介されていた。
山城の水の手の確保として段丘上の井水の発掘なども興味深い内容だった。
企画展示の他は(こっちがこの博物館のメインか)考古博物館らしく発掘物や考古資料から原始・古代の人々のくらしを考える・・・といった展示でした。
この企画展に合わせて三回の講座があったようだったが全て終わっていて残念だった・・・
さらには下伊那の山城をいくつかめぐる「下伊那歴史探検隊」なる企画も・・・
また数日前まで阿智村長岳寺所蔵の武田信玄の冑前立てが展示されていたそうだ・・・
全てが後手過ぎた・・・講座は是非聴講したかった。
今回購入した飯田城ガイドブックと企画展「南信州の山城」の刊行本、などなど・・・
飯田城ガイドブックは飯田市で発行しているだけあって内容はかなり濃厚である。
南信州の山城は展示の内容がより詳しく説明されていて、かなり素晴らしい資料だ。
タイミングが合えばこの様な企画展や講演会は積極的に参加していきたい!
と強く思うのであった。
岩村城と苗木城 [歴史]
昨年の佐久の城めぐりにつづき、今年もじいさんといっしょに城めぐりの旅に出掛けてきた。
今年の旅のタイトルは 「岩村城と苗木城 幕末まで活躍した東濃の山城」
もちろん旅のしおりも作成(参考「図解 山城探訪」)
旅の様子はいつもの様に妻のブログにまかせるとして・・・
岩村城も苗木城も鎌倉幕府の功臣 加藤景廉を祖とする遠山氏の山城であった。
しかし勢力の間であり交通の要衝であることからも幾多の戦乱を経てきた。
そして江戸時代を迎え石垣の山城へと姿を変え、明治まで活躍してきた珍しい山城である。
次回から今回の旅の城めぐりをレポートしてゆきたい。
先ずは戦国期には武田と織田の争奪の場となった岩村城
岩村城攻略の陣城であった大将陣
最後に木曽川断崖上の巨岩の要害 苗木城
今回は見事な石垣の山城に恥ずかしいくらい興奮しっぱなしであった事はいうまでもない・・・
そして城じゃないけどオマケも・・・(新コーナーか?)
乞うご期待!
なるべく早くまとめます・・・
乙事陣場 [歴史]
今回は徳川軍が陣場とした乙事陣場へと行ってみた。
富士見町乙事にあるニチレイガーデンとなりの溜池に乙事陣場の案内板があったのでいつものように見てみよう。
富士見町指定史跡 乙事陣場
いまに陣場(じんじょう)の小字名を伝える足場溜池の南側一帯は、徳川軍が布陣したところである。
元はなだらかな尾根をなしていたが、昭和二十八年~二十九年の土地改良区画整理事業によって切り取られ、一部を留めるのみとなっている。
天正十年(1582)六月、織田信長が本能寺で滅亡するや、諏訪頼忠はいちはやく諏訪の旧領を回復して自立した。
徳川家康は諏訪氏を服属させようと、乙事村名主の五味太郎左衛門を使者に立てたが、頼忠は服さない。そこで七月下旬、大久保忠世・酒井忠次ら七将に命じて諏訪を攻略した。
いっぽう北条氏直も信州を支配しようとして、四万三千の大軍を率いて佐久方面から進軍してきた。これを察知した徳川方三千は乙事まで退いたが、北条軍は一里近くまで迫り、両軍はまさに乙事原で衝突しようとする寸前にあった。
このとき太郎左衛門は具に北条軍の動静を探り、適切な進言をしたので、徳川軍は一兵も損なうことなく新府に退くことができた。
こうして北条軍は甲斐に入り、再び退陣すること八十余日に及んだが、両軍の間に漸く和議が成立して十一月に陣が解かれ、北条氏は上州を、徳川氏は甲斐・信濃を得ることになり、諏訪氏も徳川に服属した。
太郎左衛門は、この間の功績によって甲州に拾貫文の知行を拝領し、後になって家康に召し出されて姓を乙骨と改め、その旗本に取り立てられた。
ここの乙事陣場は「じんば」ではなくて「じんじょう」なのかしら?
それはさておき乙事陣場から一里まで迫った北条勢はどのルートで近づいたのだろうか。
立場川の対岸まで迫ったのか?釜無川の側から攻め昇ったのか?
案内板のある溜池の周りを見回すとなにやら石碑のような墓石のような・・・
近づいてみると・・・
おお!陣場の石碑と祠が!
石碑には陣場の説明が刻まれていたのだが少々見にくかった。
おおむね案内板の説明と同じであろう・・・
石碑のあった所から南西側の城の尾根陣場が見えるであろう方角を見るが・・・林で見えない。
かつてあった尾根上からだと見えたのであろうか。
少し北寄りに車を走らせ城の尾根陣場の見えそうなところへ行ってみた。
丸で囲った辺りが城の尾根陣場。
北条勢の進軍ルートは分からないが、この辺りまであと一里のところまで迫ってきたのだ。
瀬沢合戦から調べ進めていつのまにか乙事の陣場にたどり着いてしまった。
しかし北条勢と徳川勢の陣場と、瀬沢合戦の諏訪勢と武田勢の陣場の伝承が似ていたりして史実なのか、歴史と物語の混濁なのか、私のような素人には混沌とするばかりだ・・・
でもまぁ、明確な答えがない方が歴史は楽しいのかな。