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城の尾根陣場 [歴史]

前回の登矢ヶ峰城の近くに城の尾根陣場という場所がある。
瀬沢合戦で武田勢に急を衝かれた諏訪勢が立て直しを図り決戦した場所ともいわれていて、その時の戦死者を葬ったとされる九ツ塚もこの辺りにあった。
また天正十年に織田信長亡きあとの甲信の覇権を争った天正壬午の乱ときに、大門峠を越えてきた北条勢が城の尾根を陣場としたと記録のある所でもある。

城の尾根陣場


瀬沢上空之図.jpg
横吹地区を通る武智川の橋の上から城の尾根陣場を見上げる・・・
中ほどの木立の後の小高い辺りが陣の尾根だ。
城の尾根陣場下.jpg
すぐ近くに九ツ塚跡があった。
戦死者を九つの塚に葬ったので九ツ塚と呼ばれるようになったという。
しかし洪水や田普請などで一ヶ所だけ残っていたが、その場所も昭和三十四年の伊勢湾台風の時に流されてしまい今はその跡を残す九ツ塚跡となっている。
九ツ塚跡.jpg
丸で囲った辺り一帯が城の尾根陣場跡となる。
耕作されていて往時の姿は解らないが城の尾根だけ小高い事は解る。
城の尾根陣場跡.jpg
城の尾根陣場の南の沢
この辺りは「沼の神」と呼ばれているらしい。
城の尾根陣場南.jpg
城の尾根から先ほど見上げた辺りを中心に見る。
城の尾根.jpg
城の尾根の北の低地(沢)は「ねずみ久保」と呼ばれているらしい。
「図解・山城探訪」では陣場であった時に「不寝見」で「ねずみ」となったのではと推測している。
城の尾根陣場から北.jpg
城の尾根陣場の上の道から八ヶ岳を見る。
天正十年に城の尾根の北条勢と対陣した徳川勢は乙事を陣場としたが小勢だった事もあり戦うことなく新府城へと退いた。
乙事は大体正面の丸で囲った辺りだと思うが・・・その乙事陣場は次回紹介しよう。
城の尾根陣場上からの眺望.jpg
南東方向に登矢ヶ峰城がある。
写真右端に見える建物は天下の銘酒”真澄”の富士見醸造所だ。
城の尾根陣場上から南.jpg
昭和五年に城の尾根で兜の錣(しころ)が発見されたという。
諏訪氏と武田氏が争っていた頃のものなのか、北条勢が陣場とした頃のものなのかは分からない。
よく考えるとこれだけ耕作されていて発見されているものが無いというのも不思議な気がする。
九ツ塚に葬るときに全て拾い集めたのか・・・それほどに凄まじい洪水があったのか・・・


記事「城の尾根陣場」の参考文献
宮坂武男著「図解 山城探訪 第一集 諏訪資料編」


徒然しろくろう ”よみがえれ!八ヶ岳森林軌道” [歴史]

今までやられ続けてきたのでここでついに”徒然まさごろう”のパクリ決行!
テーマは歴史と鉄道っぽい”よみがえれ!八ヶ岳森林軌道”である。
よみがえれ!八ヶ岳森林軌道.jpg
八ヶ岳森林軌道は昭和十四年(1939)から昭和二十二年(1947)まで美濃戸周辺の御料林(皇室の直轄林)から富士見駅に至る木材運搬用の軌道で、総延長が約19㎞あったという。
年間7000㎥もの木材が関東や関西に運ばれ、戦中戦後の復興に役立てられていたという。
この場所は10㎞駅と呼ばれていた場所で、木材を積んで下るトロッコと、空のトロッコを牽引して上がって来るガソリン機関車がすれ違うための重要な地点で、近くには従事する人たちの宿泊所もあったという。(案内板より)
この場所は県道484号線、通称鉢巻道路沿いの八ヶ岳登山口の所にある。
八ヶ岳森林軌道駐車場.jpg

八ヶ岳森林軌道10㎞駅


原村の「よみがえれ、八ヶ岳森林軌道」専門部会によって復元展示された森林軌道の木材運搬トロッコ。
八ヶ岳森林軌道.jpg
タイミングよく鉢巻道路を耕運機が激走!危なーい!逃げろーい!
八ヶ岳森林軌道と耕運機.jpg
八ヶ岳森林軌道の案内板。路線図や当時の写真もあってなかなか良い案内板だ。
八ヶ岳森林軌道案内板.jpg
こういった地元の歴史も「よみがえれ、八ヶ岳森林軌道」専門部会のような部会の活躍によって改めて知ることができる。
自分も「信玄の棒道」部会にでも入って活動しようかな・・・

せっかくのパクリ企画もタイトルだけで書式は俺の城!になってしまったか・・・

参考までにリンク
「よみがえれ、八ヶ岳森林軌道」専門部会

笹出丘 [歴史]

前回の雀ヶ森同様の伝承のある場所がその近くにある。
それが笹出丘(ささでっきょう)である。

笹出丘



前回紹介した雀ヶ森から東に上って行くと県道484号線、通称”鉢巻道路”に出る。
その鉢巻道路を北へ少し行った所に今回の目的地”笹出丘”がある。
こちらのほうが武田信玄の棒道筋の物見や烽火台であったという感がある。
この写真の中央の道沿いの小山が笹出丘である。
笹出丘.jpg
残念ながらその頂は別荘地として区画され販売されている。私に財力があれば・・・
笹出丘頂上.jpg
雀ヶ森と同じく「図解・山城探訪」にも紹介されているのだが、残念ながらこの小山全体が別荘地として分譲されていて、「図解・山城探訪」中でも「間もなくその痕跡は全く失われるものと思われる」としめられている。

雀ヶ森 [歴史]

妻が四月に地元の史跡めぐりに行ってきた(むりやり行かせた)。
それをブログの記事にしていたのだが、そんな中の”天狗の森”の項でふれられている事と関係のある場所である雀ヶ森(すずめがもり)を訪ねてみた。

雀ヶ森


原村の第二ペンションの東を流れる一之瀬堰と原村八ヶ岳自然文化園の間の小山が雀ヶ森である。この辺一帯を雀ヶ森と呼ぶのかも知れないが、今回はその小山を雀ヶ森とする。
雀ヶ森入口.jpg
雀ヶ森は天狗の森同様に鎌倉幕府滅亡時に諏訪氏が北条高時の子、亀寿丸(後の北条時行)を一時匿った場所としての説のある場所である。
また北条時行を擁して諏訪氏などが一時鎌倉を奪還したが二十日余りで鎮圧されてしまった二十日先代の乱(中先代の乱)の後に諏訪大祝が追手から逃れるために隠れ住んだという伝承もあるが、こちらは天狗の森の方がそれらしい。
天狗の森と違うのは小山である事と頂上辺りに土塁状の地形が有る事である。
「図解・山城探訪」でも紹介されているが山城っぽいのである。
なので自然と時代は変わって武田信玄の”棒道筋の烽火台”という説も出てくる。
写真では分かりにくいが正面には頂上が見えない様に土塁状の地形がある。
またその土塁状地形を虎口とするような土塁状地形が奥に延びている。
雀ヶ森.jpg
頂上付近の石碑。右は御不動さん。左の上原山整備記念の石碑には”信濃史跡”とも書かれている。何の史跡か説明が欲しいところだ。
雀ヶ森の石碑.jpg
人の見える辺りが虎口っぽくなっている。
そして写真左側が長い土塁状になっている。
雀ヶ森の土塁状地形.jpg
なんだかぼやけた情報ばかりでここがどんな史跡かよく分からないのが残念であるが、まぁ隠れ住んだという場所だからきちんと記録が残っているわけはないか・・・

自分達の住んでいる場所の今日に至る歴史を知らないという事は恥ずかしい事であると思う。
地元の歴史は地元の人間がきちんと知っておくべきである。そして自分の子供たちへと伝えていかなければならない。

直江兼続 [歴史]

今回の城めぐりの旅の締めとして直江兼続についても語らなければならないだろう。
どこの解説を見ても直江兼続は文武兼備の英傑であることと、地元の発展の基礎を築いたことへの尊敬と感謝が記されている。
そんな直江兼続が主役の「天地人」が二〇〇九年の大河ドラマに決まり、直江兼続ゆかりの地はどこも盛りあがっていた。
(大河ドラマ「天地人」山形県推進協議会のPRポスター)

米沢には上杉家の至宝が数多く保管されている。もちろんそんな中に直江兼続ゆかりの品々もいくつか見られる。 今回はそんな宝物の数々を見学することが出来た。

宮坂考古館は散在していた上杉家ゆかりの武具などを私財を投じて収集したものが展示されている。 ここには直江兼続が関ヶ原の戦いの時の山形地方戦、長谷堂の合戦て着用したと伝えられる渋い色合いの甲冑がある。
また天下の傾奇者、前田慶次郎が長谷堂の合戦で着用したと伝わる朱塗の異形の甲冑も展示されていた。
宮坂考古館.jpg 直江兼続甲冑.jpg前田慶次郎甲冑.jpg
上杉家の至宝が数多く眠る稽照殿。冬期は基本的には休館なので予約が必要なのだ。
有名な直江兼続の”愛”の前立の兜はここで見る事が出来る。
直江兼続が兜の前立てに掲げた”愛”の持つ意味とは何だったのだろうか?本人のみ知るところである。
そもそもいつ頃使用したのかもよく分からないのではないのかな?
どの戦役で着用したのか分かってくるとその意味も見えてくるのではなかろうか。
愛染明王とか愛宕権現の”愛”ではなかろうかと言われているがなんだかしっくりこない。
長岡市教育委員会資料”直江兼続”や小説”天地人”では「仁愛の精神」すなわち「愛民の精神」の”愛”と説明されている。
その方が民政に尽力した直江兼続像に近い気はする。
読書家だったから墨子思想の「全ての人に平等な愛を」という”兼愛”ではなかろうかなんていうのも面白い。
対面する人それぞれに意味を委ねたなんていうのはどうだろうか。
人それぞれに思う”愛”があるだろうから”愛”を掲げて迫られたら挫けてしまいそうである。

ちなみに与板歴史民俗資料館にこの春から”愛”の前立の兜の本物のレプリカ?が展示されるそうだ。
稽照殿入口.jpg
じっくり見たかったが、宝物殿内は外よりも寒かった!
寒冷地仕様の体を持つ我々だったが寒さに挫けてしまった。
稽照殿.jpg
ほらっちょ氏の勧めで直江兼続夫妻の眠る米沢、春日山林泉寺を訪ねた。
そういえば春日山城の麓にそんな名前のお寺があったなぁ・・・川中島の合戦の戦死者が葬られているとか・・・ そちらも寄ってくれば良かった。
春日山林泉寺.jpg
直江兼続夫妻の墓。
米沢の大恩人は夫婦仲良く、静かな林泉寺の雪の中に安らかに眠っている。
直江兼続夫妻墓所.jpg
上杉景勝夫人、菊姫の墓。
武田信玄の娘と上杉謙信の後継者が結ばれようとは誰が予想したろうか。
甲州夫人菊姫之墓.jpg
武田信玄六男、武田信清の墓。
武田家滅亡後、姉である菊姫の夫、上杉景勝を頼って上杉家の録を賜わっていた。
子孫は代々米沢に暮したらしい。遠い米沢の地ににご近所の甲斐武田氏の末裔の眠る墓所を見ようとは思わなかった。
写真では分かりにくいが墓石に万年塔が見られる。
武田信清之墓.jpg
帰りに寄った与板城にあった直江兼続の詠んだ漢詩「人日」の石碑。
解説には”兼続が人日(正月七日)の題で詠んだもので、兼続直筆を転刻したものである”とある。
さらに続き”江戸時代中期、政治家で儒学者の新井白石は「我が蔵に兼続が和漢連句百韻あり、その才有し、うたがうべからず」と評すなど兼続の学識の高さがうかがえる”とある。
ここ与板でも兼続は信濃川の砂防工事をしたり、堰を整備したりして農業政策に尽力している。
人日.jpg
私が特に直江兼続を尊敬するのは関ヶ原で負け組となってからの上杉家執政としての姿である。
上杉家を存続させるために関ヶ原後早くから徳川家とのパイプとして本多正信との関係を親密にしている。
徳川家中いろいろな人物のいる中で、関ヶ原の戦いでも遅参した徳川秀忠付きで武功のない本多正信を頼むあたりすごいと言える。
本多正信はあの”乱世の梟雄”松永久秀から「尋常ならざる人物」と評されたほどの人物である。
関ヶ原の戦い以降徳川家康は徳川幕府開設に向けて本多正信を重用している。武功派だった家臣たちは各地の抑えに置かれ政局からどんどん遠のいているのだ。そこまで先読みして託す人間を的確に選んでいるのだ。
おかげでかなりの減封にはなったが家名を存続することが出来た。
しかしながら会津一二〇万石だった上杉家が米沢三〇万石へ減封になってしまったのだ。
しかも一二〇万石の頃からの家臣がほとんど欠ける事無く米沢に移ったから大変である。
大きな河川を整備して堤防を築き城下を守り、また堰を整備して水の安定期供給を図った。
屯田制を敷き四季農戒書を記し農業技術を指導をしたり、堀などで食用になるように鯉を飼育したり、垣根にウコギを植えたりと平時も戦時も飢える事の無いような政策をとっている。
また越後時代からの青苧栽培や今では山形といえば有名な紅花などの産業を興し財政の助けとした。
有事の際の備えにもぬかりなく、掘立川の整備をして堰き止めると川幅が広がり水堀となる仕掛けをしたり、白布高湯での鉄砲の製造や、墓石に格子状に穴を開けて軽量化を図りいざとなったら積み重ねて鉄砲の弾よけなどに使える万年塔を作らせたりしている。
それから大変な読書家で蔵書家だった直江兼続は米沢で禅林寺を開き禅林文庫を設た。そこは米沢藩の教学の中心地となり米沢藩の学問の基礎を築くこととなった。
そして嫡男が早くに死に跡目を継ぐ者がいなくなっても養子を取らずに直江の家を絶えさせた。大録を食む直江家を無くし上杉家の苦しい財政を助けるためだろうと言われている。
ざっと書き上げてはみたが文章では簡単にはまとめられない程の様々な偉業を残しているのだ。
上杉家を窮地に陥れてしまった責任をこれでもかというほど果たして、今は大恩人として松岬神社に上杉景勝とともに神として祀られ、米沢の人々の暮らしを見守っている。


旧諏訪大社上社大祝諏訪家 [歴史]

平成14年に諏訪家の当主が亡くなり家系が途絶えてしまい、大祝諏訪家の居宅、土蔵、史料、武具、などが諏訪市に寄贈されたという記事を見つけた。古代から近世に至るまで大祝として諏訪社の頂点の役職をとりしきってきたその史料は興味深い。
中世までは諏訪氏が世襲で諏訪社の大祝職と、諏訪の領主として政治も担ってきたのだが、天正14年(1586)諏訪頼水のときに祭政分離をはかり、本来ならば大祝職を息子に継がせるところを弟の頼広に継がせた。それから藩主諏訪家と大祝諏訪家とは別れ、明治時代まで大祝職は続いたそうだ。
諏訪市は建造物の調査・修復とともに、調査研究や保存活動を補佐する民間の団体の設立を検討するそうだ。また文化庁へ「諏訪神社信仰遺跡」として国史跡指定のはたらきかけもしていくそうだ。
歴史的な新しい発見があったり、まだ知らない諏訪地方の事が発見されれば面白いだろうなぁ。

”図解・山城探訪”の宮坂武男氏の講演会 [歴史]

今日は私の山城めぐりの教科書”図解・山城探訪”の著者、宮坂武男氏の講演会へ夫婦で行ってきた。
演題は「ひと味ちがった風林火山~山城めぐりは人とのめぐり逢い~」である。氏の山城めぐりのあれこれが聞けるのかと期待も高まる。
始めは大河ドラマ”風林火山”の虚実ということで諏訪氏と武田氏の関係や、各登場人物の実像などについて語られ、それから諏訪の山城の話へ入っていった。
ここでは城について語られた中で興味深かった事を紹介していきたい。

信玄は攻め落とした城では”城割(しろわり)”の儀式をしたようである。城割とは城の旧城主の城の守護神を廃し、城とのかかわりを断ち切ったりといったような意味があるらしい。
その後武田家使用に城を改める為に”鍬立(くわたて)”の儀式を行ってから城を改造し、新たに信玄の信ずる守護神を置いたらしい。

上原城は武田家によって一年かけて大改修され信濃攻略の重要拠点となった。城下も甲府の躑躅ヶ崎館周辺のようによく区画整備されていたそうだ。また大軍団の中継基地として機能していたので何千もの兵馬が寝食できる施設や備蓄が整っていたようである。

桑原城は高鳥屋(たかとや)城と呼ばれていた。ドラマのような御殿は存在せず炭焼小屋程度の粗末な小屋しかなかったと「守矢頼真書留」に残っているらしい。現在大手口の尾根筋や主郭付近は藪が凄くて訪れるには一苦労だという。搦手口(裏口)の方が近くまで車道が通っており登りやすいそうだ。

湯川城(桝形城)には武田氏の城によく見られる”丸馬出し”があったが田畑の圃場整備で壊されてしまったそうだ。この城は大門峠を越える前の武田軍の人馬の休憩に使われていたらしい。

もっと諏訪地方の山城について聞きたかったが時間となってしまった・・・
講演の最後に主催者が氏の言葉を引用して講演をしめた。
「山城と呼ばれる中世の城郭が、四、五百年の長い歳月を、風雪に耐え、落ち葉に埋もれ。また、時には耕作されたりしながらも、ひっそりと山の中に残っている姿を見ると、よくぞ今まで、命を繋いで、生き延びてくれたものぞと、いとおしく思えてくる。
それと同時に、いろいろと事情があったにせよ、無残に破壊された姿は、なんとも悲しく哀れで、どうしてもっと大事にしてもらえなかったのかと、残念に思えて仕方が無い。
歴史的な遺物は、長い年月の間には、自然に風化し、忘れられ、消滅していく運命にはあるが、人の関わり方によっては、その命はずいぶんと違ってくる。今、山野に散在する山城も、残すも壊すも、すべて人の手に委ねられていることが多く、私たちが、その価値をどう見るかということに、大きく関わってくる。」
私がはじめて丸子城跡に登った時に感じた感覚と似ていて驚いた。全く同感である。

宮坂武男氏は現在上州の山城を調査中だそうだ。上州には興味深い岩櫃城や沼田城や箕輪城などがある。氏の”図解・山城探訪、上州資料編”が待ち遠しい。
宮坂武男氏には長生きをしてもらって日本中の山城を網羅してもらいたい。


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