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武田勝頼 土佐へ行く!? [歴史]

地元紙である長野日報の記事に面白いものを見つけた。
「勝頼」通し地域交流・・・土佐や韮崎 深まり期待・・・土佐?
韮崎は新府中構想と新府城の兼ね合いから分かるのだが、土佐とはいかに?

天正三年(1575)長篠の戦で織田・徳川連合軍に敗れてから衰退の一途をたどり、天正十年(1582)織田軍に攻められ天目山で自害した・・・というのが定説であるのだが、実は・・・
同じ武田氏の系統の香宗我部家を頼って土佐へ落ち延び
名を「大崎玄番」と改め64歳まで生きたというのだ。

詳しい解説は「武田勝頼土佐の会」でお願いします・・・ちょっと筆不精な わ・た・し
http://katsuyoritosa.web.fc2.com/index.html
2008年に発足した高知の「武田勝頼土佐の会」に続き今年9月に諏訪の「由布姫・勝頼の会」、韮崎の新府中にらさきの会」が発足し交流を深めてゆくそうだ。

源義経が海を渡ってモンゴルへ逃れてチンギス・ハンになったとか・・・
大阪城落城のどさくさに豊臣秀頼とともに真田幸村が薩摩へ逃れたとか・・・
その類の話ではあるまいか?
でも、諏訪の人間としてはこの説を信じてみたい気持ちもある。


その伝承が本当であれば、歴史や人物の見方も少しづつ変わってくるかな。
勝頼一行を受け入れず裏切り者として悪評の小山田氏が
実は勝頼一行を逃がし自ら汚名を着たのであればかなり男前である。

明治の自由民権運動で有名な土佐藩出身の板垣退助
実は武田家家臣だった板垣信方の孫・乾正信を祖とする・・・と言われている。
父の改易から死によって幼くして甲斐から出る事になり、
後に活躍して山内家に仕え主家とともに土佐に渡った板垣退助の御先祖様・乾正信。
滅亡した主家の当主と功臣の孫が土佐で出会っていたのかもしれない・・・んな訳無いか!


偉大な父・武田信玄の勇名に埋もれがちな武田勝頼・・・
勝頼の代で武田家滅亡となってしまったので悪い評価をされてしまうのだが
歴史上の事件や合戦が定説から見直されている昨今
真実の武田勝頼を見直す良いチャンスなのではなかろうか。

今年の大河ドラマの影響で人気沸騰の土佐に逃れたわけではもちろんないのだが、
今、土佐に人々の注目が集まっている時だからこそこちらも注目を集めたい話題だ。



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コメント 4

中佐

面白い!
現在伝えられている歴史は、本当はどうなのかは分からない
答えが出ないから、歴史は面白いんだろうな
自分で巡ったり、調べたり その人なりの答えがあってもいいのではないか?
それよりも、ページ内のオークション広告「長篠の戦いジオラマ」12万円に驚いた!
スーパー戦隊のジオラマ作りてぇな…
by 中佐 (2010-10-08 00:19) 

俺の城

>中佐殿
古文書や伝承、描かれた絵図などがら検証するんだろうから
解釈によってモヤモヤしていていいんだろうね。
あまりにもクリアになると面白くもない
ただの事実になってしまうのかも・・・

長篠の戦いジオラマ見たぜ・・・持ち運べるんだ・・・

by 俺の城 (2010-10-09 08:51) 

tatsuo

昨年土佐に行って来たのですが、伝承にはとどまらない奥深さを感じましたよ。
史実とは違う内容には戸惑いましたが広範囲に武田勝頼に関する史跡やら伝統を地域ごとに守っていたり、
で、何故に武田勝頼?本当に不思議なのですが、勝頼が土佐に行ったのではないか!?と思えました。またそれが定説ではないにせよ、一度足を運んでみると感慨深いものを感じます。
by tatsuo (2010-11-09 19:13) 

俺の城

>tatsuoさん
コメントありがとうございます。
土佐の地に居たとしか思えないその跡を私も是非訪ねてみたいです。
どの様に逃れて、土佐の地でどんな余生を送ったのか・・・誰か小説化してくれないかなぁ~
by 俺の城 (2010-11-11 18:13) 

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