妻女山陣場 [歴史]
松代城からも見えた妻女山
永禄四年の川中島の合戦のときに上杉謙信が陣場としたとされる場所である。
かつては妻女山の山裾を千曲川が流れていたという。
松代城からもさほど遠くないし、自動車で直接行ける。
彼の場所からどのような景色が見られるのか興味津々である。
国道403号線を松代から屋代に向かって注意深く走っていると左手に妻女山への案内があるので
言われるがままに山へと登って行くと妻女山松代招魂社に行きつく。
この辺りが一般に妻女山と言われるあたりだ。
戊辰戦争で戦死した松代藩士の御霊を祀るために真田幸民が明治二年に建立した招魂社。
駐車場から招魂社を含めたこの辺りは陣場平と呼ばれている。
陣場らしくこんな演出も・・・
展望台があったので登って見る
じいさんと案内板に書かれているような事を話す・・・
今回もメジャーな合戦の舞台なので啄木鳥だの飯炊きの煙だのと余計な解説は省こう。
今来た松代方面
あの辺りが松代城(海津城)かな?
武田信玄が到着する前に海津城を攻略しようとした上杉謙信であったが守備が賢固であったため断念し、上杉軍は海津城を東に見ながら妻女山に登り陣をしいたという。
長野方面・・・善光寺平というのかしら?
多分この辺りが八幡原の史跡公園・・・
「妻女山」は本来「斎場山」であり甲陽軍鑑では「西条山」と記されている・・・らしい・・・
と、通称「妻女山」を見てきた訳だが実はここは「赤坂山」で「妻女山」はさらに尾根の上の方であるともいう。
斎場山古墳のあたりに謙信が床几を据えたとされる場所もあるという。
何にせよこの山に陣を構え武田信玄と対峙したという事であろうか。
事実なのか物語なのか・・・永禄四年の川中島の合戦には信玄と謙信が直接刃を交えたりと
鵜呑みにはできないような逸話があるのでこの妻女山ひとつとってもなんだかもやもやしている。
しかしその年に両雄の激突があった事は確かであろうし、激戦であった事も確かだ。
海津城にプレッシャーを与え、見通しのきくこの辺り一帯に
陣が構えられていたことも信じられる事である。
参考文献
長野郷土史研究会機関誌 長野 第140号 信濃の武田史跡(1)
宮坂武男著 図解 山城探訪 第十四集 補遺資料集 東北信版
永禄四年の川中島の合戦のときに上杉謙信が陣場としたとされる場所である。
かつては妻女山の山裾を千曲川が流れていたという。
松代城からもさほど遠くないし、自動車で直接行ける。
彼の場所からどのような景色が見られるのか興味津々である。
国道403号線を松代から屋代に向かって注意深く走っていると左手に妻女山への案内があるので
言われるがままに山へと登って行くと妻女山松代招魂社に行きつく。
この辺りが一般に妻女山と言われるあたりだ。
戊辰戦争で戦死した松代藩士の御霊を祀るために真田幸民が明治二年に建立した招魂社。
駐車場から招魂社を含めたこの辺りは陣場平と呼ばれている。
陣場らしくこんな演出も・・・
展望台があったので登って見る
じいさんと案内板に書かれているような事を話す・・・
今回もメジャーな合戦の舞台なので啄木鳥だの飯炊きの煙だのと余計な解説は省こう。
今来た松代方面
あの辺りが松代城(海津城)かな?
武田信玄が到着する前に海津城を攻略しようとした上杉謙信であったが守備が賢固であったため断念し、上杉軍は海津城を東に見ながら妻女山に登り陣をしいたという。
長野方面・・・善光寺平というのかしら?
多分この辺りが八幡原の史跡公園・・・
「妻女山」は本来「斎場山」であり甲陽軍鑑では「西条山」と記されている・・・らしい・・・
と、通称「妻女山」を見てきた訳だが実はここは「赤坂山」で「妻女山」はさらに尾根の上の方であるともいう。
斎場山古墳のあたりに謙信が床几を据えたとされる場所もあるという。
何にせよこの山に陣を構え武田信玄と対峙したという事であろうか。
事実なのか物語なのか・・・永禄四年の川中島の合戦には信玄と謙信が直接刃を交えたりと
鵜呑みにはできないような逸話があるのでこの妻女山ひとつとってもなんだかもやもやしている。
しかしその年に両雄の激突があった事は確かであろうし、激戦であった事も確かだ。
海津城にプレッシャーを与え、見通しのきくこの辺り一帯に
陣が構えられていたことも信じられる事である。
参考文献
長野郷土史研究会機関誌 長野 第140号 信濃の武田史跡(1)
宮坂武男著 図解 山城探訪 第十四集 補遺資料集 東北信版
2010-12-28 00:49
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