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乙事陣場 [歴史]

前回の城の尾根を陣場とした北条軍に対陣した徳川軍は乙事に陣を構えた。
今回は徳川軍が陣場とした乙事陣場へと行ってみた。


乙事陣場



富士見町乙事にあるニチレイガーデンとなりの溜池に乙事陣場の案内板があったのでいつものように見てみよう。

富士見町指定史跡  乙事陣場

 いまに陣場(じんじょう)の小字名を伝える足場溜池の南側一帯は、徳川軍が布陣したところである。
 元はなだらかな尾根をなしていたが、昭和二十八年~二十九年の土地改良区画整理事業によって切り取られ、一部を留めるのみとなっている。
 天正十年(1582)六月、織田信長が本能寺で滅亡するや、諏訪頼忠はいちはやく諏訪の旧領を回復して自立した。
 徳川家康は諏訪氏を服属させようと、乙事村名主の五味太郎左衛門を使者に立てたが、頼忠は服さない。そこで七月下旬、大久保忠世・酒井忠次ら七将に命じて諏訪を攻略した。
 いっぽう北条氏直も信州を支配しようとして、四万三千の大軍を率いて佐久方面から進軍してきた。これを察知した徳川方三千は乙事まで退いたが、北条軍は一里近くまで迫り、両軍はまさに乙事原で衝突しようとする寸前にあった。
 このとき太郎左衛門は具に北条軍の動静を探り、適切な進言をしたので、徳川軍は一兵も損なうことなく新府に退くことができた。
 こうして北条軍は甲斐に入り、再び退陣すること八十余日に及んだが、両軍の間に漸く和議が成立して十一月に陣が解かれ、北条氏は上州を、徳川氏は甲斐・信濃を得ることになり、諏訪氏も徳川に服属した。
 太郎左衛門は、この間の功績によって甲州に拾貫文の知行を拝領し、後になって家康に召し出されて姓を乙骨と改め、その旗本に取り立てられた。

ここの乙事陣場は「じんば」ではなくて「じんじょう」なのかしら?
それはさておき乙事陣場から一里まで迫った北条勢はどのルートで近づいたのだろうか。
立場川の対岸まで迫ったのか?釜無川の側から攻め昇ったのか?
乙事対陣之図.jpg
案内板のある溜池の周りを見回すとなにやら石碑のような墓石のような・・・
近づいてみると・・・
乙事陣場跡.jpg
おお!陣場の石碑と祠が!
石碑には陣場の説明が刻まれていたのだが少々見にくかった。
おおむね案内板の説明と同じであろう・・・
史跡陣場.jpg
石碑のあった所から南西側の城の尾根陣場が見えるであろう方角を見るが・・・林で見えない。
かつてあった尾根上からだと見えたのであろうか。
乙事陣場から釜無川方面.jpg
少し北寄りに車を走らせ城の尾根陣場の見えそうなところへ行ってみた。
丸で囲った辺りが城の尾根陣場。
北条勢の進軍ルートは分からないが、この辺りまであと一里のところまで迫ってきたのだ。
城の尾根陣場を見る.jpg
瀬沢合戦から調べ進めていつのまにか乙事の陣場にたどり着いてしまった。
しかし北条勢と徳川勢の陣場と、瀬沢合戦の諏訪勢と武田勢の陣場の伝承が似ていたりして史実なのか、歴史と物語の混濁なのか、私のような素人には混沌とするばかりだ・・・
でもまぁ、明確な答えがない方が歴史は楽しいのかな。
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