先達城 [城]
今年の初めに近くの城跡へ行ってきた。
家から10分そこそこのお手軽な城めぐり・・・今年の城初めである。
行事や風邪でレポートは随分と遅れてしまい今では雪景色だな・・・
先達城
山梨方面の城めぐりによく通っている県道17号線沿いに先達城はある。
奥の建物が主郭部のあった常昌寺・・・兼公民館。
手前は駐車場というか広場になっている。
写真の様に入口に石碑があり県道沿いなので場所は分かりやすい。
奥から来た地元のばあさんと少し話をしてから城めぐりを始めた。
隣に案内板があったのでいつものように見てみよう。
富士見町指定史跡
先達城址
享禄元年(1528)八月、武田信虎は諏訪攻略の兵を甲信国境付近に進めてきた。『神氏御頭之日記』に「此年甲州武田方ト執合ニ付テ、八月廿二日ニ武田信虎堺ヘ出張候テ、蔦木ノ里ノ内小東ノ新五郎屋敷ヲ城ニ取立候、同廿六日青柳ノ下ノシラサレ山ヲ陣場トシテ、安芸守頼満・嫡子頼隆対陣ヲ御取候テ」とあり、続いて同晦日に神戸・境川で合戦になったことが記されている。
地元の伝承によれば、ここ鳳凰山常昌寺の敷地には武田信玄の家臣、多田淡路守常昌の居館があった。その常昌は天正三年(1575)の長篠の合戦で討ち死にしたという。境内の墓地には、天保年間ころ長篠の戦場跡より写し取ってきたという墓碑があって、表に「知海常通居士位」裏に「三州長篠合戦天正三年五月四日夜 陣中右淡地三八郎常政[苑]」と刻まれている。ただし、常昌その人について文献の上では見極めがたい。
館址は鹿之沢川左岸の尾根筋上に立地し、西北側(諏訪側)が急峻な谷で画される一方、東南側は緩傾斜となっている。げんざい城跡としての遺構は特に認められないが、北に広見木戸、南に南木戸の名を残し、それぞれに沿って二軒の「広見の家」と「南の家」がある。また、寺をとり巻くように「城の家」という呼び名の家が四軒かぞえられる。明治七年の先達村絵地図には字城と示されている。先達城址が「城」であったことは、これらの呼称からも確かといえる。
こんにち「小東村の新五郎屋敷」はその場所を特定する事ができない。
主郭部の鳳凰山常昌寺
多田淡路守常昌の死後廃城となり、その後寺となった。
常昌寺西側の一段下の広場
ここも先達城の城地であったでああろう。
視界は開けていて甲斐駒ケ岳などの山々までもよく見える。
大手と思われる南の木戸はこの下になる。
広場から常昌寺を見上げる
写真左側を常昌寺の裏まで土塁状の地形があるのだが、土地の造成の時にそうなったのか、土塁を活かしてそうなったのか・・・
写真左側は案内板曰く”鹿之沢川左岸の急峻な谷”になっている。
ちょうど下りられそうな山道があったので降りてみる。
先達城北側の斜面
斜面中央辺りを堰が通っており通路が整備されていた。
下の鹿之沢川を見下ろす。
まさに急峻な谷だ。
常昌寺の下あたりと広場の下あたりの二ヶ所の堰が大きく内側に曲がっていた。
堀切の跡がこうして残っているのであろうか。
堰の通路を東へ歩き県道へと出た。
ここで県道で分断されてしまっているが先達城もおおむねこの位の規模だったか。
先ほどの通路を回り込むと広見木戸に出る。
先達城の搦手はこちらだったと思われる。
常昌寺側からの広見木戸。
写真左側は墓地となっているが先達城の城地であり空掘と曲輪があったと思われる。
駐車場からの先達城
ここから先達城の大手である南木戸へ行ってみる。
南木戸
写真正面を先達城への大手道がのびる。
南側(甲州側)からの先達城。
こちらからは地続きのようで主郭部(常昌寺)が少し高い所にあると思える程度だ。
北西側(諏訪側)からの先達城。
南側とは違い深い谷と城の北斜面が諏訪側の守りを意識した城だと思わせる。
大河ドラマ「風林火山」の熱が完全に冷めた今年あたりが諏訪地方の山城の狙い目と年頭から地元の城をめぐろうと動き出したまでは良かったが体調不良や愛車の不具合で足踏み状態となってしまった。
おまけに雪まで降って・・・また長靴履いて子供背負って山歩きかな。
記事「先達城」の参考文献
宮坂武男著「図解 山城探訪 第一集 諏訪資料編」
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