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戸石城② 砥石城 [城]

前回からの続き・・・

米山城を分岐まで下りてきたので、今度は砥石城を目指す。
砥石城へ.jpg
戸石城縄張図  青線が今回の砥石城ルートで本城付近の大手口まで行く。
砥石城縄張図 砥石城.jpg
宮坂武男著 「図解 山城探訪 第三集 上田小県資料編」より戸石城縄張図

登り始めから要ロープの険しさ・・・このまま上まで続くのなら軍手が欲しいところだが・・・
砥石城登山1.jpg
途中から階段が整備されていて登りやすくなる・・・登りやすくね・・・
砥石城登山2.jpg
登りやすいが傾斜はきつく延々と続く・・・山城ですからね。
一度頂上を思わせる精神的トラップの岩場を越えて、さらにもうひと頑張りすると・・・
あと少し.jpg
いよいよ砥石城の主郭に到着! 皆様御苦労様~って、お経みたい!
砥石城主郭.jpg
ここに戸石城の解説があったのでいつものように見てみよう。

長野県史跡 戸石城跡

 この城は東太郎山の一支脈が、神川に沿って南方に突出している高い尾根に構築され、本城を中心に北に枡形城・南に砥石城・西南に米山城を配した堅固な連郭式山城で、総称して戸石城と呼ぶ。

<本城>
 戸石城全域で最も広大で、最上段の本郭から南へ二の郭・三の郭と続き、その東下または東南方面に四の郭・三日月形郭・帯郭等郭群の遺構をよくとどめている。本城の東南は小さな谷で、これを登る両側には小段郭が麓まで幾重にも続いており、登城口(大手)とみられている。
<枡形城>
 北方最高所標高800mにあって自然の山頂を利用している。郭の西方入口に4平方mの枡形があるのでこの名が付いた。郭は長方形で、手前に半月形の段郭が二つある。
<砥石城>
 本城の南に連絡しており、北下りの鞍部に幅9mの深い堀切がある。本郭は方20mの削平台形部郭で周囲の展望は実によい。

 戸石城は村上・真田氏が戦略上重要視し、また重要な役割を果した城である。規模が大きく、四要害を二体として構築し、しかも居館としても用いられた極めて特色のある貴重な史跡である。

ちょっと戸石と砥石の使い方が混乱している様だったのでここでは修正してみました。

さほど広くは無い印象だが見晴らしは素晴らしく、物見としての役割は十分そうだ。
砥石城から南西方向の上田平方面は塩田城までも見渡せる。
砥石城より南西方面.jpg
ちなみに上田平(上田盆地)は千曲川西岸を塩田平とも呼ぶようだ。
南東方面には写真の赤い矢印側に小諸方面からや大門峠からの動きが監視できる。
砥石城より南東方面.jpg
見切れてはいるが東側の虚空蔵山の伊勢山城(伊勢崎城)や、さらに東にある矢沢城も見える。
北東方面には真田本城と真田氏館といった本拠地がよく見える。
砥石城より北東方面.jpg
戸石城が村上氏の拠点であった頃の緊張状態とはどのようなものであったろうか。
砥石城主郭の北側から「本城へ至る」の案内に従い本城へと向かう・・・が、
本城へ至る.jpg
砥石城主郭北側は切岸になっておりロープ付きのスロープが設けられていた。
削られた砥石城主郭部が壁のように見える。さらに堀切もされていて防御を高めている。
砥石城切岸.jpg
砥石城から本城へと向かう。
本城へ向かう.jpg
尾根上は削平されているようで幅は広い。
比較的平坦な尾根筋をしばらく歩くと大手口の案内板に辿り着く。
本城手前.jpg
正面には本城の段々の郭らしきものが見える。
ここから写真右下の細い道を下りて行けば水の手や麓の大手口へと向かう。
本城大手口.jpg
早速本城へと向かいたいところだが・・・次回へつづく・・・

戸石城① 米山城 [城]

別所の湯で鋭気を養い、いざ戸石城へ!
出撃.jpg
久々のなめて登ったらいけない山城・・・戸石城
戸石城に関しては砥石城、本城、枡形城を砥石城として、その支城の米山城として分けているものがあったりと解釈は様々のようだが、今回はオールドスタイルの米山城、砥石城、本城、枡形城をもって戸石城としたい。

国道144号線の伊勢山の信号に戸石城への案内があるので導かれるように曲がって、
しばらく案内に任せて進むと戸石城の駐車場がある。



今回は縄張図よりも所要時間や注意書きもあるパンフレットを参考の登城とした。
砥石城2.jpg
戸石城縄張図 赤線が今回の米山城までのルート
砥石城縄張図 米山城.jpg
宮坂武男著 「図解 山城探訪 第三集 上田小県資料編」より戸石城縄張図

この縄張図では今呼ばれている本城と枡形城とが逆になっているのだが、当時作図された宮坂武男氏は地元の伝承や『長野県町村誌』を参考にこのようにされたそうだ。
このブログでは城にあった案内にしたがいパンフレットに合わせたいと思う。

さてさて、駐車場から戸石城を目前にするとその山城感に圧倒される。
あらためて靴の紐を締め直し、暑くなるだろうから着ている物を軽くして登山に備える。
駐車場から登り始め「なめんなよ!」の案内に気を引き締めると櫓門が見えてくる。
駐車場から城門へ.jpg
実際の大手口はこちらでは無いのだが、これはこれで登城の意欲が・・・!?
櫓門に掲げられているのは誰?
城門.jpg
あ~あ~ゲームからアイドル化した半裸の幸村か?
・・・と油断しているところを城兵に狙撃されてしまった!!
そうか!そういうトラップだったのか~!
城門の狙撃手.jpg
そんな訳はないだろうがこれはちょっと・・・邪魔・・・言葉悪いけどこれは求められてないでしょ!
うぐっ!うげっ!槍はやめて!!・・・求められてたの!?   
と、心の声はともかく櫓門には登る事が出来て上田方面も良く見えます。

それでは櫓門をくぐってまずは米山城を目指す。
櫓門から登城.jpg
途中の開けた場所からこれから登る米山城を見る。
登城中見える米山城.jpg
子供達は先にある何かを求め先を急ぐ・・・手前の俄ハゲのおっさんがワ・タ・シ・・・
櫓門から登城2.jpg
城めぐりしている自分の姿が見られるのはなんだか新鮮!
最近ほらっちょ氏から写真提供があったので早速のブログ利用・・・フリーフォトですよね?
この先に米山城と砥石城の分岐があり、今回は先に米山城からめぐる。
米山城へ.jpg
登り始めるとかなりの傾斜に土に落ち葉・・・滑って登れません!
米山城登山.jpg
パンフレットにも書いてあったが、そんな登城者のためにちゃんとロープが設置されていました。
登ること十分そこそこで米山城の本郭へ到着。
米山城コースはこの辺の小学生の遠足コースでもあるらしい。
米山城本郭.jpg
正面の石碑は村上義清公之碑で、その先にはこれから下って登る砥石城がぁ・・・
ここに米山城の案内板があったので説明を見てみよう。

長野県史跡 戸石城

米山城
 戸石城は本城を中心に北に桝形城・南に砥石城・西南に米山城の四要害から構成されている堅固な連郭式の山城である。築城年代は明らかでないが、室町時代後期 坂城の村上氏が、小県方面へ進出する拠点としていた。
 天文十九年村上義清が、武田晴信の軍を大敗させ、世に「武田の砥石崩れ」と称されたが、翌二十年真田幸隆は調略を用い、独力で攻略した。やがて幸隆の子昌幸はこの城を居城としたが、天正十一年上田城に移った。それ以後も上田城外護の要害として重要視された。
 米山城は、砥石城の西南方の峰続きにあって、本郭の南下に二の郭、三の郭を配置し、その下に腰郭も築かれている。また白米を馬の背に流して、水が余るほどあることを敵にみせかけたという、白米城伝説も残されている。 

なるほど、本郭から南側には段々に郭が配されている。
米山城段郭.jpg
パンフレットによればこちらを登ってくる金剛寺ルートありとのこと・・・登り約三十分なり・・・
米山城から上田城を中心に視界が開けている。
米山城から上田.jpg
米山城を満喫したので砥石城を目指して今来た道を下りなければならない・・・
砥石城へ至る.jpg
子供達ぃ~慎重にぃ~慎重にぃ~
あぶない!下り要注意・・・重々分かっています!
米山城下り.jpg
枯葉の積もるこの岩場を慎重に下りると・・・
米山城下り岩場.jpg
ふゥ~やれやれ・・・先ほどの分岐に到着!
砥石城へ.jpg
休むことなく砥石城へと歩を進めるのだった・・・次回へつづく


真田氏館跡 [城]

日も暮れ出し焦る我々は真田本城を後にして真田氏歴史館を目指した。
時間的に入館時間ギリギリ・・・近いとはいえ間に合うのか!



真田氏歴史館の閉館時間は16時・・・駐車場到着16時・・・万事休すか!!
真田氏歴史館.jpg
血走った眼で受付の方に「まっ、まだいいですかぁ~!」
受付「ぜんぜんいいですよ~」
さすが真田氏歴史館、どこかみたいに定時で非情にドアを閉めたりはしない。
ここで安心したせいかこの後一枚も写真を撮って無かった・・・ので、以前訪れた時の写真を・・・

真田氏歴史館と真田氏館跡は同じ御屋敷公園敷地内にあるので、
ここで日が暮れるまでの間をガツガツと見学と城めぐりとした。

真田氏歴史館で真田太平記のロケ写真や劇中の甲冑で盛り上がったり、
当時の大判ポスターに萌えたり・・・と、一息ついてから真田氏館跡へと向かった。

真田氏館跡 
西辺130m・東辺80m・北辺130m・南辺160mの台形をしていて土塁が全周している。
赤線のルートで大手口から見ていこう。
真田氏居館2.jpg
宮坂武男著 「図解 山城探訪 第三集 上田小県資料編」より真田氏居館縄張図

それでは大手口より館内へと入っていって見よう。
大手口.jpg
引きの写真でなくて分かりづらいくていけないのだがこの大手口は内枡形を成している。
大手の枡形から北面の土塁
大手口から北土塁.jpg
大手口を入ってすぐに案内板があったのでいつもの様に見てみよう。

 真田氏館跡は、真田氏の上田城築城以前の居館といわれ、地元では現在でも「御屋敷」と呼んで親しまれている。また、中世豪族の居館の形態が、ほぼ完全な形で保存されており、真田氏一族の貴重な遺跡として昭和42年に長野県史跡の指定を受けた。
この館跡は、西方に開いた本原扇状地の奥に位置し、また、真田氏城跡群がこの扇状地を取り囲んで築かれたことからも、堅固な立地を考えて居館としていたことがわかる。
館跡の四方を囲んで築かれた土塁は、周囲520メートル余あり、外周には、堀が巡っていたと推定されている。特に北面は、大沢川が天然の堀となって現在も残っている。また、土塁の南面に、大手門、北面に搦手門があり、南東の角にも小規模な門があったといわれている。
土塁の内側は、主に二段の曲輪からなり、東側上段の曲輪には、真田昌幸が上田城へ移る際に勧請したと伝えられる皇太神社がまつられている。西側下段の曲輪には、その北西隅に厩と称される約10メートル四方に区画された土塁が見られる。

大手口から入ると道を挟んで西曲輪、東曲輪と案内板にあった。
撮影が下手で斜めっている訳では無い・・・西傾斜しているのよ。
西曲輪.jpg
自動車が止まっている先に搦手跡があるらしい・・・また、北西隅には土塁で方形に区画された厩跡があるようなのだが・・・”ズク”がなかったもんで・・・
現在の西曲輪はマレットゴルフ場となっている・・・長野県では定番か?
東曲輪には皇太神社が祀られている。
東曲輪.jpg
真田昌幸が上田築城後にこの居館が荒廃することをおそれて勧請したといわれているようだ。
実際にこのお社が建てられている場所に居館が建てられていたのだろうか。
皇大神社.jpg
居館南東隅の入角(入隅)となっている場所・・・木で見えない・・・
入角.jpg
写真左側に土塁の欠けが見られるが、案内には東門とあった。
東側から見た入角の土塁。
入角付近の土塁.jpg
神社の裏側にあたる東側の土塁。
東土塁.jpg
館の周囲には堀があったのであろうが、この辺りに何となく分かる程度か。
館跡の東側から資料館までの間も公園として整備されている・・・もちろんマレットゴルフ場ね。
出陣広場.jpg
情けない事に当日写真を一枚も撮って無かったのだが、よくよく考えれば一度行っていたからだったのか・・・それでも一緒に行った面々を絡めての写真を撮って無かったのはイタイ・・・
こうして真田氏館跡を後にするのだった。

出発時の計画では今日は砥石城まで!と意気込んでいたのだが、さすがに冬の四時過ぎでは無理であろうということで、翌日の朝一番で登城と言う事に計画変更して宿へと向かった。

一時間早くても砥石城へは登らなくて良かったと翌日十分に思い知らされることになるのだが・・・


参考
宮坂武男著 「図解 山城探訪 第三集 上田小県資料編」


真田本城 [城]

早くしないと日が暮れる~と、岩櫃城よりやって来ました真田の庄。
この真田町の地域だけでも行きたい場所は盛り沢山・・・
辺りは赤みを帯びてきたのでどこをチョイスするか悩みどころだ。

岩櫃城より国道145号線を上田方面へとひた走る。
途中八ツ場ダムの建設現場やそれに付随して造られたと思われる八ツ場バイパスを通ったり、我が夫婦には懐かしい東海大学嬬恋研修センターへの入口を発見したり、県境付近で猟犬に追い詰められるカモシカを発見したりと、道中もなかなかに盛り上がり鳥居峠に到着。
ここまではなだらかに登ってきたイメージだったが、峠を下り始めるとつづら折れの険しい峠道となる。ちなみに群馬県吾妻郡長野原町の羽根尾交差点から144号線になっていたようだ。
鳥居峠を下り国道144号線をしばらく走ると横沢という信号があるので、これを県道4号線へと入って行く。実はこの道沿いにある山は松尾古城と呼ばれる山城である。でも今回はパス。
この先にある長谷寺へ寄ったのだが紹介はまたの機会としてとにかく真田本城へと向かう。
この辺りの道沿い左側を注意して走って行くと(上田からだと右側)真田本城を指す小さな案内板が立っているのでそれに従ってさらに進むと駐車場へと辿り着く。


真田本城の縄張図 (赤丸が駐車場の位置)
真田本城縄張図1.jpg
宮坂武男著 「図解 山城探訪 第三集 上田小県資料編」より真田本城縄張図

この後行った真田氏歴史館でいただいた「信州上田 真田氏ゆかりの山城案内」には
真田氏本城への行き方や見所案内も・・・ざっくりしているが解りやすい!
真田本城2.jpg
こんなパンフレットだが砥石城ではなかなかに活躍してくれるのだった。
それでは本郭へと向かって行こう。
駐車場から.jpg
この本郭南の辺りも段になっていて郭の体を成してはいるのだが、
日当たりもよいのでもしかしたら桑や果樹など耕作された跡か?
本郭から南の段郭.jpg
現在は日当たりも良く芝の郭に厠も整備され芝生公園となっている。
この辺りからの眺めは上田城こそ砥石城の陰で見えないが上田方面への見晴らしも良い。
真田本城から上田方面.jpg
再び本郭に向かうと・・・ん?
サタデーナイトフィーバー? ジョン・トラボルタ!? いや、ほらっちょ氏だ!!
「ここが真田氏本城跡です!」と身体を張ってくれた。
真田本城.jpg
案内板から真田本城の解説を見てみよう。

史跡 真田氏本城跡
 この城跡は、天白城と共に馬蹄形状に構築され、南西面に広がる緩斜面には、真田氏館跡や原の郷があり、さらに指呼の間に戸石城・矢沢城を望むことができる。
 本郭は東西8.6m 南北38mの広さで、南側に高さ2mの土塁を築き、北方へ二の郭 三の郭と段差を設けながら延び出し、その北側は急崖となって厳重に防備している。
 規模は大きく水利もあり、周辺城跡群等の関係からみて、上田築城以前の真田氏本城であったと推定される。

この案内板の後ろの小山は本郭で土塁という事ね。
それでは反対側に回って本郭を見てみよう。
本郭から二の郭.jpg
案内板にもあったように二の郭、三の郭と段々に延びている。
ここが本郭で先ほど案内板のあった場所の反対側の土塁が見える。
本郭.jpg
北東には ここへ来る時に通ってきた松尾古城が見える。
真田本城は別名・松尾城で、あの山城は松尾古城・・・ややこしいので真田本城で。
真田本城から松尾古城.jpg
そして南西には戸石城が見える。
真田本城から砥石城.jpg
三の郭から本郭の方を見る。
二の郭と三の郭の間には堀切った跡も見られる。
二の郭.jpg
三の郭から松尾古城方面を見る。
赤矢印の方向に行くと鳥居峠。
鳥居峠方面.jpg
北西方向に信綱寺とその周辺の山城のある辺りが見える。
赤矢印方向に行くと松代へと抜ける地蔵峠がある。
地蔵峠方面.jpg
赤丸の建物が信綱寺っぽかったのでズームしてみると・・・おおっ信綱寺だ!
信綱寺.jpg
真田本城からは真田町全体はもちろんだが、今回通ってきた鳥居峠方面や松代と通じている地蔵峠方面、さらに上田方面とすべてを見渡せる位置にある。
真田本城4.jpg
ここ真田の庄すべての山城と連携が取れ、司令塔の役割を果たせる防衛の要、
まさに名前の通りの真田本城であった。

小説「真田太平記」での真田本城は・・・って登場したかなぁ・・・
真田の庄はかつての本拠地として、草の者の本部的な位置付けであったような・ないような・・・
この城が活躍したのはそれ以前、真田氏勃興から砥石城を任されるまでかもしれない。

日も落ちてきたので、この日最後の目的地、真田氏歴史館のある真田氏館へと向かう。

去り際に真田本城を撮る・・・
真田氏居館方面から真田本城.jpg
お気付きかも知れないが、今回の話は夕方のはずなのにさわやかな青空・・・
以前来た時の写真が数枚紛れているのですた。

参考
宮坂武男著 「図解 山城探訪 第三集 上田小県資料編」


岩櫃城 [城]

真田幸隆が上州侵攻を目論む武田信玄の命を受け攻略した岩櫃城。
甲斐の岩殿城とともに双璧ともいえる天険の要塞。
今ではこのような立派な御殿がふくげ・・・ん?
岩櫃城温泉.jpg
町・営・岩・櫃・城・温・泉・く・つ・ろ・ぎ・の・館・・・あ~あ~あれね!
真田幸村もよく入ったって言う真田一族の隠し湯的な・・・ウソです!
ここは岩櫃城温泉くつろぎの館という素敵な外観の温泉施設でした。

さてさて、名胡桃城前の信号から県道36号線を使って国道145号線へと抜けると中山の信号に出る。この交差点を長野原・中之条方面へと向かいひたすら国道145号線を走る。
ちなみにこの中山の交差点からわずか進んだ辺りに中山城があった。
国道145号線をひたすら進み吾妻線群馬原駅を越えて橋にかかる手前の左手に岩櫃城とコニファーいわびつ入口の看板があるのでそちらへと入って行き・・・あとは細い山道を、集落の中をカーナビにまかせて進むと駐車場に辿り着いた・・・カーナビゲーション様々だ。

山城の駐車場がこれほどに整備されているとはおどろきだった。
駐車場.jpg
赤い矢印が登城口(登山口)で後ろに見える山が岩櫃山。
早速 岩櫃山登山口から登城だ!
岩櫃山登山口.jpg
写真左側の登山口の小屋には岩櫃城のパンフレットがあったのでそれを手に登城しよう・・・
準備した資料は車中にて待機!・・・トホホ
今回の岩櫃城めぐりルート
岩櫃城之図.jpg
登り始めは整備された道であったがちょっと入るとこんな感じ。
岩櫃城へ登城.jpg
先に訪れた沼田城や名胡桃城とはひと味もふた味も違うので子供達も「本当にここ登るの~」
こんなところに朽ちた空堀の案内板が・・・堀跡が登山道とはまさに城攻め体験!
岩櫃城登り空掘.jpg
どんどん山へと吸い込まれて行く様な怪しさに子供達も「本当にこっちでいいの~!」
登り途中の左側には段郭の様な場所があり志摩小屋(水曲輪)とあった・・・
でも写真はブレブレ~息があがってたのかしら?
水曲輪は今登っている堀左の岩櫃城北下の段郭で、
志摩小屋は水曲輪北に堀を挟んである長大な段郭であるようだ。
登りはさらにきつくなり整備された階段も現れてきた。
岩櫃城登り階段.jpg
そして子供達はぶんぶん登って行く・・・これが若さか・・・
登り続けていると岩肌と空が見えてきた。あれが本丸か?
岩櫃山の岩.jpg
どうやらここで登山と登城とは道が別れ、本丸はこちらの先のようだ。
本丸を目指す.jpg
岩櫃城本丸へは0.1kmで山頂へは0.9km・・・この距離なら山頂へも行ってみたい!
でも登りのこの距離は条件にもよるが割と時間がかかるので野望は有るか分らぬ次回へ・・・
そうしてしばらく進むと再び案内が。
木立の先に先ほど見上げた岩山が見える。向こうは城ではないようだ。
本丸を目指す2.jpg
山頂からは離れもうすぐ本丸だ。
ここから急坂を登るといよいよ本丸だ。
登り切って先ほどの案内を見降ろすと手前がクランクしているのが分かる。
本丸北西虎口.jpg
このクランク状になっている所は枡形の虎口になっていたらしい・・・帰ってきてから知ったのよね
そして登りきったところは、ついに到着 岩櫃城本丸!
岩櫃城本丸.jpg
いやいやさすがの堅城、登った登った!山城はこうじゃないとね!
北側が開けていたがこちらは全体に標高の高い方面なのでそれほど高低差は感じない。
本丸から北側.jpg
今来た道を振り返ると・・・ん? 本丸に入って歩いて来たのは土塁の上だったのかしら?
本丸北西虎口方面.jpg
反対側の一段低い場所には東屋がある・・・
本丸東端.jpg
どうやら岩櫃城本丸址の標柱と案内板のあった場所は一段高くなっていて櫓台か屋敷跡らしい。
本丸に入って歩いて来た土塁状の道はどうやら櫓台から延びていた土塁のようだ。
岩櫃城本丸2.jpg
やはり用意した資料は持ってくるべきであった・・・興奮するとダメね・・・
本丸南側から下へと延びる竪掘。
本丸からの竪堀.jpg
この辺りは複雑に堀が入組み城下方へと延びている。
そんな堀跡をたどって行くと本丸東側の一段下にある二の丸へと出る。
二の丸.jpg
本丸の広さから見るとこんなものか?といった印象も受ける。
二の丸から竪堀を伝って下へと降りて行く。
二の丸から竪掘.jpg
こちらの傾斜の方が登って来た道よりも歩きやすい。
二の丸から竪掘2.jpg
←中城方面と→御殿方面への分かれ道へ到着・・・今回は時間の都合で中城方面へ・・・ん?
中の城端の分岐.jpg
熊出没注意!?もっと早く言ってぇ~ガクガク・・・
熊出没注意.jpg
辺りを気にしながら大声で歌を歌いつつ中城を通過・・・丘~を越~え~ゆこ~よ~
中城.jpg
口~笛~吹きつ~つ~・・・うるさい? 中城は台形状の広い郭であった。
先へ進むと先ほど下ってきた堀の対となる竪堀が見られる。
中城反対側堀.jpg
中城から林を抜けてスタートの登山口へと戻る。
中城からの道.jpg
駐車場へと戻ってからすぐ隣の小高い天狗の丸へと行ってみる。
天狗の丸.jpg
天狗の丸は畑となっており正面の林が岩櫃神社となっていて地図上の目安ともなる。
天狗の丸より麓の原町方面を見る。
天狗の丸からの原町方面.jpg
原町が整備されたのは岩櫃城が廃城になってからのようで、それまではこの天狗の丸脇の道を先に行った平川戸という辺りに城下を形成していたようだ。その出入り口である東の木戸跡も残っているそうだ。
天狗の丸より岩櫃山を見る・・・あの山頂が本丸でなくて良かったか・・・
天狗の丸からの岩櫃山.jpg
岩櫃山から左側に延びている平らな部分が岩櫃城となる。
岩櫃山.jpg
良く見るとちょいちょい岩が突き出しているのね。

岩櫃城登山口の小屋で手に入れたパンフレットから城歴などを紹介しよう。

岩櫃城は岩櫃山(標高802m)の中腹東面に築かれた典型的な中世の山城です。頂上より約200m下がった場所(標高593m)に本丸・二の丸・中城があり、この場所を中心に広い範囲を城域としています。また、近くに2つの支城、北東側に柳沢城と岩櫃山南側に郷原城を持っています。通称バンジョウ坂を東端とし、西側は本丸のある中心地から距離にして400mほど上がった所を端としています。この東西を両端とする北東方面へ1.9km延びる尾根線上に主たる遺構があります。南側は切沢の谷を自然の堀にして南西の境とし、南東側は岩櫃山の山裾の斜面を壁面として、さらに吾妻川を自然の堀に活用し、限界としていると考えられます。北側は不動沢が境界線となっています。

岩櫃城の歴史
岩櫃城は年代は定かではありませんが、南北朝の頃築城されたと考えられています。城郭の規模は136haと上州最大規模を誇り、後に甲斐の岩殿城、駿河の久能城と並び武田領内の三名城と称されました。この城の城主として最初に名前が出てくるのが吾妻太郎行盛です。行盛は南北朝時代、南朝方の里見氏に攻められ吾妻川原において自害したという伝説があります。その後行盛の子千王丸(斉藤越前守憲行)が北朝方の上野守護上杉憲顕氏の支援によって岩櫃城を奪回し、その子孫が戦国時代までこの城を本拠として東吾妻を支配しました。
 永禄六年(1562)武田信玄は上州侵略のため、家臣真田幸隆に岩櫃城攻略を命じました。ときの城主は吾妻太郎行盛から数えて六代目の吾妻太郎斉藤越前守憲広(基国)といわれ、堅城を利して奮戦しましたが、ついに落城してしまいました。こうして岩櫃城は武田氏の手中に落ち、信玄は幸隆に吾妻郡の守護を命じました。
 天正二年(1574)に幸隆が世を去り、岩櫃城主には長子の信綱が収まりましたが、翌年、長篠の戦で信綱、昌輝兄弟が戦死したため、真田家は幸隆の三男、昌幸が相続しました。その後、昌幸の長男信幸が支配し、信幸の弟幸村も少年時代をこの城で過ごしたと言われています。
天正十八年(1590)北条氏が滅亡し、一度北条氏の支配下に置かれた沼田は再び真田氏の支配になり、信幸は初代沼田城主となりました。岩櫃城は沼田の支城として吾妻郡統治の中心としての役割を果たしました。
 慶長五年(1600)関ヶ原の戦いでは、昌幸(西軍)と信幸(東軍)は敵味方に別れました。このとき岩櫃城は昌幸の叔父矢沢頼綱が城代となり、信幸方の城となっています。そして、幾多のドラマの舞台となった岩櫃城も徳川家康が発した一国一城令(元和元年)により、四百年余りの長い歴史を残し、その姿を消しました。

そういえば名胡桃城の案内をしてくれたおじさんが岩櫃城付近のどこかに武田勝頼を迎えるための御殿跡が潜竜院に残っているって教えてくれたなぁ・・・
このパンフレットにしっかり記載されていました。


でも時間の都合で今回の岩櫃城の城めぐりはここまで。


駐車場へ戻り次の目的地へと向かう。
いよいよ鳥居峠を越えて真田の庄へと向かうのだ!
ちゃっちゃと一時間もあれば着くかな?とカーナビの到着予定時間を見ると・・・二時間!?
急がねば日が落ちる~冬の落日は早いぞ~!


小説『真田太平記』では・・・
真田の草の者(忍者)が砥石城~岩櫃城へあっさり情報を伝えていたぞ!?
ドラマでは残像の残る速さで駆け抜けてFAX張りに書状渡してたぞ・・・はいはい・・・
小説だし、ドラマだしね~現実は車で二時間ね~そりゃそうだ。

武田家上州侵略の拠点として真田幸隆が攻略し、
武田家滅亡後は真田家自立を支えた堅城・岩櫃城
武田勝頼が岩殿城へ行く事を選ばずに、ここ岩櫃城へとやって来たのであれば
歴史は変わっていたのであろうか。
家中のゴタゴタで弱っているとはいえ現時点での同盟者・上杉景勝の領地に近い岩櫃城へ逃げ込んだ方がまだ打つ手もありそうとも思えるのだが、
実際の事情は歴史のもやもやの中、我々にはわからない。
もしかしたら都留から北条領・八王子へと抜けて、本当に土佐へと渡って行ったのか・・・
岩殿城へ向かった武田勝頼一行は小山田信茂の裏切りに遭い都留郡へと入ることを拒まれ、天目山の田野にて自刃し武田家は滅亡した。
それを知った『真田太平記』での真田昌幸は複雑な怪しい表情をする。
もしかしたら真田の家、真田の領地領民を守るためには同じ事をしていたのかも・・・
という含みにも思えるシーンがある。
その後の真田昌幸は混沌とした情勢の中、見事に自領を守り抜いてゆくのだ。


国道145号線へと戻り信州上田を目指す・・・?
あっ!岩櫃城といえばの岩櫃山の岩っぷりを撮ってな~い!!
岩櫃山2.jpg
大急ぎで車窓よりその姿を納めるのだった・・・


名胡桃城 [城]

この城は沼田城を攻略するために築かれた前線基地・・・
そして沼田城攻略後は沼田城防衛の有力な支城・・・
そして豊臣秀吉の北条征伐から天下取りへの足掛かりとなる事件で有名になった城・・・
そう、ここがかの名胡桃城である!!
名胡桃城.jpg
・・・えっ!?  知らないって??

沼田城から月夜野バイパス(国道291~国道17号線)を使って猿ヶ京温泉方面へ向かって行くと沼田城からも見えた月夜野大橋を渡る。
月夜野大橋を越えて登り切った辺りに名前もそのまま、名胡桃城址前の信号がある。

かつて名胡桃城の般若郭であった駐車場に止めた車から降りて振り返ってみると
いきなりスイッチの入る景色が目に飛び込んできた!
般若郭からの二の郭堀.jpg
まだどの郭の堀かはわからないがなんだか落ち着かなくなってきた!!
手持ちの資料もあったのだが、入口の案内所で縄張図やパンフレットが頂けたので
これを手掛かりの城めぐりとなった・・・
と思ったらボランティアの方が来て城案内をしてくださった。
名胡桃城縄張図.jpg
フムフム・・・どうやら先ほどの堀は二の郭の堀だったようだ・・・

もうお気づきかもしれないが現在の名胡桃城址・・・邪魔な木などがほとんどありません。
名胡桃城址.jpg
写真手前が馬出跡で、その先の子供がいる辺りが三の郭となる。
名胡桃城は奥へと郭の続く連郭となっている。
どんどん城内へと入って行くと再び堀で区切られた次の郭が現れる。
写真は三の郭と二の郭の間の堀。
二の郭堀.jpg
先ほど駐車場から見えた堀で、左側が三の郭で右側が二の郭だ。
二の郭へは木橋が架けられていたようで、虎口は食違い虎口と言われている。
堀の幅が二の郭虎口を境に東西で違うので、土塁で食違いの虎口を形作っていたと思われる。
二の郭へ入り三の郭方面を見る。
二の郭から三の郭に入った辺りからは三日月堀が発掘されているそうだ。
資料を見ると位置と形状から二の郭の西虎口の丸馬出にも見えるのだが・・・いかにか?
二の郭から三の郭方面.jpg
写真の赤い線辺りまで名胡桃城の城域であったそうだ。
名胡桃城で一番広い二の郭を通り本郭へと向かう。
ちなみにこの二の郭の門は三の郭側と本郭側と両側から発掘されているらしい。
そんなことからこの二の郭が本郭なのではなかろうかと書かれている本もある。
本郭とは深い堀で区切られており、かつては木橋が架けられていたそうだ。
本郭の堀.jpg
堀の深さを感じながら本郭へと渡る。
本郭へ.jpg
堀へと下りながら見えた駐車場の般若郭の先端部。
本郭堀から般若郭.jpg
名胡桃城本郭へとたどりついた。
本郭.jpg
案内の方と名胡桃城の話はもとより、ここにも観光バスがやってくる城事情や最近行ったという私の地元の新府城や谷戸城などの話題など、落葉の名胡桃城本郭に城談議の花が咲く。
そしてさらにその先にあるささ郭へ。
本郭からささ郭.jpg
谷のような堀の先にささ郭はある。
ささ郭の東側には土塁状の地形も残っている。
ささ郭.jpg
ささ郭からの名胡桃城東側・・・よく見る山城の景色ではあるが視界を妨げる背の高い木は無い
ささ郭から東側.jpg
そして西側・・・国史跡以外ではあまりお目にかかれない手入れっぷりに驚いた!
ささ郭から西側.jpg
ささ郭から正面には利根川を挟んで明徳寺城が見える・・・って案内の方に教えてもらった。
明徳寺城方面.jpg
そして南東には沼田城が・・・ちょっとぉ! 右の小山の木立で見えないのよねぇ~
沼田城方面.jpg
そしてそして! 最先端部の物見郭には物見が・・・いや!ほらっちょ氏が・・・いつの間に・・・
物見郭.jpg
さすが歴戦の猛者は”はしっこい”
この ささ郭から辺りを見ると沼田城とは反対側の段丘上である事をあらためて感じる。



名胡桃城の歴史は案内所で頂いた名胡桃城址のパンフレットから紹介しよう

歴史の流れを変えた名胡桃城

●名胡桃館(なぐるみやかた)
 名胡桃城は室町時代に、沼田氏の一族といわれる名胡桃氏が、館(般若郭・現在の駐車場)を築いたのがはじまりといわれています。この付近は、上野と越後を結ぶ三国峠道と清水峠道、さらに鳥居峠を越えて信濃に通じる道にも近いために、軍事上戦略的に重要視されていたのです。天文21年(1552)、北条氏康に攻められ、上野の平井城(藤岡市)にいた関東管領上杉憲政は、三国峠を越えて越後の長尾景虎(上杉謙信)に救援を求めました。景虎は憲政の要請に応じて初めて上野に侵攻し(越山)、沼田城の北条氏と対峙したのですが、戦いを交えず越後に兵を引きました。謙信が上野に侵攻した回数は14回に及んだと言われています。

●真田昌幸が築いた名胡桃城
 天正6年(1578)3月 謙信が春日山城で急逝すると、北条氏政は上野に侵攻してきました。武田勝頼も上野に侵攻し、謙信が没して70日を過ぎた同年5月23日には布施(みなかみ町)を中心に勢力を持っていた六人衆に対して、「沼田を手中にした時には一人15貫文を与える」という朱印状を出しています。
 天正7年には、勝頼の命を受けた真田昌幸が信濃から吾妻・利根に侵攻し、点在する山城・砦を手中にして、小川城の小川可遊斎とともに名胡桃館を攻略しました。そして沼田城を手中にする前線基地として、隣に名胡桃城を築いたのです。
 天正8年 昌幸は、念願の沼田城(北条氏の城代 藤田信吉)を戦わずに、調略しました。
 天正10年(1582)には、3月11日に武田氏が滅び、6月2日に織田信長が本能寺に倒れるという大変事が起こりました。武田・織田という強力な大名の失せた情勢の中、同年10月29日、北条氏政と徳川家康の間で重大な約定が結ばれました。それは「北条氏が真田氏と領有を争っていた利根・吾妻の二郡は北条氏に、甲斐の都留郡と信濃の佐久郡は徳川氏に」というものですが、この約定は真田昌幸には知らされませんでした。
 天正11年 昌幸は徳川氏の支援を得て、信濃に上田城を築きました。
 天正13年 昌幸は「利根・吾妻の二郡を北条氏に渡すように」という家康からの要請を拒絶し、上田城に攻めてきた徳川軍を撃退しました(第一次上田合戦)。同年 豊臣秀吉が関白に叙任されました。
 天正14年12月4日 天下統一を目前にしていた秀吉は関東・奥州の大名に対して私闘を禁ずる「関東奥惣無事令」を出し、その直後の12月19日、太政大臣に叙任されました。
 天正17年2月13日 秀吉の臣下となっていた真田昌幸の嫡子 信幸は、徳川家康の元に出仕しました。この頃、関白太政大臣秀吉は全国の諸大名に上洛を命じていました。しかし、命に従わない大名の一人北条氏は、上洛の条件として利根・吾妻地域の領有を要求しました。これに対して昌幸は「沼田城は渡しても臣の墳墓の地である名胡桃城を渡すことはできない」と訴えたと伝えられています。このため、秀吉は津田隼人正と富田左近将監を検分使として派遣し、その報告を基に「利根川を境として、沼田城を含む東部一帯を北条に、名胡桃城を含む西部一帯 ただし赤谷川の左岸に限って真田に」という裁定を下しました。この結果沼田城には鉢形城主北条氏邦の重臣 猪俣邦憲が、名胡桃城には真田昌幸の家臣 鈴木主水が城代として入りました。
しかし 同年10月下旬頃、沼田城代猪俣邦憲が名胡桃城を不法に攻略するという事件が起きたのです。報告を受けた秀吉は激怒し、11月21日付けの書状を真田昌幸に与え、北条氏直に対して11月24日 五条からなる布告を発しました。これに加わった諸大名の率いる兵力は20万とも22万ともいわれ、国内の戦いでは最大のものと伝わっています。
 天正18年3月に始まった小田原攻めは、4ヶ月後の7月5日、北条氏政・氏直が秀吉の前に降伏することによって終わりました。強硬派として絶対の力を持っていた氏政と氏照は自刃しました。五代当主の氏直は家康の娘婿であったため助命され高野山に追放となりましたが、翌年には許されて一万石を給されました。しかし 氏直は30歳で病没し、五代百年余りにわたって関東に覇を唱えた北条氏は、ここに滅亡したのです。
 その後 名胡桃城は廃城となり、結果的に城として機能したのはわずか10年の間でした。この名胡桃城の領有をめぐる小さな事件が、120年余り続いた戦国時代に終止符を打つこととなり、日本の歴史の流れを変えるきっかけともなったのです。そのため、名胡桃城は日本史上大変重大な山城であったといえます。

う~む・・・「日本史上大変重大な山城」名胡桃城侮りがたし・・・おそるべし!


小説『真田太平記』での名胡桃城事件は真田昌幸の苦渋の決断が描かれている。

名胡桃城を任せている鈴木主水は真田昌幸とは昵懇の間柄で、身籠った愛妾のお徳を任せたりもしている。お徳は名胡桃城で無事女子を出産し、お菊と名付けられたその子は鈴木主水夫妻にも可愛がられて育てられていた。
そんな頃に豊臣家からの裁定があり沼田城を手放すこととなり、
名胡桃城は国境の最前線の城となる。
そして事件は起こった・・・というか起こされた!
上州を割譲した後も上洛に従わない北条氏直にしびれを切らした豊臣秀吉は、かねてから潜入させていた忍びの者を動かす・・・沼田城代・猪俣邦憲に北条氏直からの偽の書状を渡し名胡桃城を攻めさせるのだ。さらには名胡桃城代・鈴木主水をも真田昌幸からの偽の書状で城を留守にさせて簡単に城を落とさせる算段だ。
その豊臣の忍びの者が沼田城へ向かう途中、
偶然旧知の真田の草の者(忍びの者)お江に出会う。
旧恩のある豊臣の忍びはお江にこれから起こることを知らせる。
お江は急ぎ真田昌幸にその事を伝えるが、昌幸は豊臣方の策を見抜き動かないと決める。
義理堅く責任感の強い鈴木主水が城をあけている間に攻め落とされたと知ればどんな行動をとるか・・・昌幸は重く苦しい眠れぬ一夜を明かすのだった・・・
名胡桃城は北条方に落とされ、偽書で城を留守にした鈴木主水は責任をとって自害・・・
割譲の裁定を無視し惣無事令を破った北条家は討たれる口実をつくる事となった。

こんな感じで物語では名胡桃城の事件を豊臣方の策謀として描いている。
真田太平記から導かれた我々には悲劇の城・・・名胡桃城なのである。


沼田城、名胡桃城と真田氏のみならず誰もが拠点としたかった重要な城跡を見てきた。
信州上田の盆地からやって来た真田氏がこの地を死守したかったのは守りからの戦略でなく
外へ出て行くための足掛かりを維持するための攻めの戦略だったのかもしれないとも思えた。

次は真田氏上州攻略の要・岩櫃城へ!
 

沼田城 [城]

高校生の時、暇さえあれば読んでいた歴史小説が『真田太平記』であった。
思えばあの時から真田氏に魅入られ、登場する場所へはいつかはこの足で立ち、いつかはこの目で見てなんとなくでもその世界や雰囲気を味わいたいと思っていた。
そんな夢の旅がついに叶うこととなり、その一歩がここ沼田城から始まるのだ・・・
遅刻したけどね[黒ハート]

関越自動車道 沼田I.Cを降りて国道120号線をとにかく沼田方面へまっすぐ向かう。
途中120号線はクランクするがそれも無視してまっすぐ進み沼田市役所を超えた郵便局の辺りの西倉内町の交差点を右折してしばらく走ると左手に公園と野球グラウンドが現れる。

この公園が沼田公園として整備された沼田城である。
沼田城二の丸.jpg
この野球場も二の丸であったと思われるが、堀跡など曲輪を思わせる遺構に乏しくなかなかその姿を捉えられない。
写真正面の野球場と本丸方面の境に土塁らしきものも見られるが、造成の跡かもしれない。

今回のおおまかな沼田城めぐりルート
沼田公園案内図1.jpg
赤線のルートで公園内を・・・城内をめぐった。
赤文字のA~Fは俺の城!解説ポイント!
と いうのも
恥ずかしながらブランクからか城めぐりモードに入り切れておらず
ただの観光客と化していまして・・・
今こうやって撮ってきた写真を見ながら城めぐりをまとめていても
ポイントを押さえた写真が全く撮れていない・・・トホホ・・・でも記憶と文章でカバー!

野球場の脇を興奮気味に歩き、テニスコートの先に見えた土塁状地形を目指して行く。
今思えばこのポイントFは櫓台かなにかではなかったのかと思われ・・・
まぁ写真も無いのでぇ・・・と
その土塁状地形を越えると溜池があった。
本丸側の石垣が妙に古っぽいなぁ・・・と見ていると
本丸堀跡.jpg
実はここポイントAは本丸堀の名残だそうで、堀幅十二間(約24m)あったそうだ。
そして写真手前側の通路にはポイントB・本丸御門跡がある。
沼田城本丸御門跡.jpg
写真奥は二の丸グラウンド・・・野球場で、
右側の木々の間からうっすら見える東屋付近が小高くなっていて櫓台跡っぽい場所。
そして本丸御門をくぐったつもりで反対側に進むと・・・本丸跡となる。
ちょうどほらっちょ氏が我が息子をモデルにネタ写真を撮っていた・・・
城マニアの父に翻弄される子供之図・・・ウチも普段はこんなに微笑ましいのねぇ~アハハハ・・・
沼田城本丸跡.jpg
本丸内は公園として整備されていてシンボル?の鐘楼が建てられている。
写真右奥に沼田城内でも城らしい名残のみられるポイントCの西櫓台が見られる。
沼田城本丸.jpg
その西櫓台と堀跡・・・本当はこの反対側に立派な石積みがあったのだが写真ナシ!
オレ・・・なにやってたんスかねぇ・・・石垣に沿って回る様にスロープ状の通路があり、そこを通って初めて沼田城の立地を感覚的に理解できるのだ。
ちなみに石垣西側には石の突き出した個所もあり素人目には要補修に見えた。
沼田城西櫓台跡.jpg
本丸から西櫓台の脇を通ってたどり着いたのはポイントDの捨曲輪。
絵図などでは古城などとも呼ばれている曲輪だ。
正面の通路は後設置だが、こうして捨曲輪から本丸を見ると本丸との高低差も解る。
捨曲輪から本丸.jpg
捨曲輪から名胡桃城方面を見る・・・ピントが手前の木に・・・ではなく
利根川の河岸段丘上の好立地であり、越後と関東を、さらには信濃を結ぶ交通の要衝であったこの沼田城の重要性がうかがえる。
沼田城から名胡桃城.jpg
捨曲輪東側には堀の役目を担ったであろう谷がある。
保科曲輪側は宅地化していて擁壁工事が成されていた。
捨曲輪脇の堀.jpg
捨曲輪より再び本丸へと戻る。
写真左側の小高くなっている木立には・・・
捨曲輪から本丸へ.jpg
利根英霊殿が建てられていて、実はここは・・・
沼田城天守台.jpg
沼田城の天守跡だったのでした。
ポイントEのここに九間×十間(約18m四方)の五重の天守が建っていたとか。
関東にあって五重の天守があったのは江戸城の他はここ沼田城だけであったようだ。
天和元年(1681)沼田真田氏の改易とともに建物は破却され堀は埋められたそうです。
沼田城天守台跡.jpg
天守台北側の窪地。
先ほどの捨曲輪の堀はここま伸びていたようだ。
沼田城天守台裏の堀.jpg

沼田公園内の生方記念資料館などの受付で簡単な資料をいただいたので
そこから沼田城の歴史を紹介したい。

沼田氏と沼田城
       沼田市は群馬県の北部に位置し、四方を山に囲まれた盆地を中心として、利根川や薄根川・片品川周辺には非常に高い河岸段丘が発達しています。沼田公園のある崖上の台地に最初に城を築いたのは、鎌倉時代以来この地方の有力者であった沼田氏(ぬまたし)の十二代・万鬼斎顕泰で、天文元年(1532)の頃であると云われています。倉内城とも呼ばれたこの城は、関東へ至る要衝の地にあることから越後の上杉氏や小田原の北条氏、甲斐の武田氏などの戦国大名によりめまぐるしい争奪が繰りひろげられることになりました。
 天正八年(1580)武田勝頼の命により沼田に進出した真田昌幸は沼田城を攻略し、さらに翌九年には沼田城の奪還に来攻した平八郎景義を謀殺して沼田氏を滅亡させました。しかしこれ以後、この地の領有を主張する北条氏とこれに応じない真田氏との間に沼田城をめぐって攻防が続きましたが、同十八年(1590)に北条方が真田方の名胡桃城を不法に攻略したことが契機となり、北条氏は豊臣秀吉の小田原城攻めにより滅亡しました。秀吉は真田昌幸に対し信濃2郡と利根・吾妻の旧領を安堵し、昌幸は沼田城を嫡子の信幸に与え信濃国上田へ移りました。

真田氏と沼田城
       2万7千石の真田氏初代沼田城主となった信幸は近世的な城郭の整備にとりかかり、二の丸、三の丸、堀、土塁、大門等の普請の後、慶長二年(1597・一説には十二年)には天守が完成したと云われています。現在の熊小屋付近に建造された天守は、幕府に提出した城絵図や古文書から規模は「九間 十間」で「五重」であったことが分かっています。 真田氏はその後二代信吉、三代熊之助、四代信政、五代信利と約一世紀にわたって沼田領を治めていましたが、天和元年(1681)11月、五代信利は江戸両国橋用材の伐出し遅延と失政の名目で城地は没収、改易となりました。城は幕府に明け渡され、翌二年に城はすべて破却されて堀も埋められました。

その後の沼田城
       真田氏改易後、旧真田領は天領となりましたが、元禄十六年(1703)本多正永が幕府より沼田城復興を命ぜられ2万石で入封しました。しかし、城の本格的な復興はなされず、城破却で埋められた堀の整備や土塁の構築などが行われたのみで、本多氏三代のあとは再び代官支配となり、その後享保十七年(1732)黒田直邦が3万石で入封し、二代続きました。寛保二年(1742)には土岐頼稔が3万5千石で入封し、土岐氏は十二代頼知で明治維新を迎えて沼田城は廃城となりました。真田氏改易以降は三の丸に藩邸が建造されたものの、天守が再び建造されることはありませんでした。
 大正五年(1916)、旧沼田藩士の子である久米民之助(沼田市名誉市民)は、城地の荒廃を惜しみ私財を投じて購入して公園として整備し、大正十五年(1926)に沼田町に寄付されました。

現在の沼田城
             現在、本丸と捨曲輪と二の丸・三の丸跡の一部が沼田公園(一部市指定史跡)に、総曲輪の一部が沼田小学校や沼田女子高等学校の敷地となっています。本丸跡に西櫓台と石垣、本丸堀の一部がみられ、僅かに城の名残を留めています。本丸跡には鐘楼が建設され、真田信吉が鋳造させた城鐘(県指定重要文化財)が釣下げられています。二の丸跡には、旧生方家住宅(国指定重要文化財)や国の登録有形文化財の旧土岐邸洋館、旧日本基督教団沼田教会紀年会堂が移築されています。


二の丸野球場を一周し駐車場へと戻り沼田城を後にした・・・
我が家の遅刻のせいで正覚寺へは行けなくなってしまったけど・・・
沼田城遠景.jpg
次の目的地である名胡桃城へ向かう車中から沼田城を見る。
利根川沿いの河岸段丘を薄根川と片品川によって削り取られた地形は
こちらから見ると小山のようで難攻不落の要害であったことがうかがえる。


小説『真田太平記』での沼田城の印象といえば真田信幸に与えられた城でもあるのだが、
城代となった矢沢頼綱がよく守備し北条軍の侵攻を抑えていた場面がうかぶ。
矢沢頼綱とは真田幸隆の弟で真田昌幸の叔父にあたる人物である。
真田昌幸が本拠を守り通せたのもこの叔父の存在と活躍はおおきい。
そんな矢沢の叔父に、ついつい真田昌幸になったつもりで叫んでしまう!
「おぉじぃごおぉ~っ!」

沼田城をめぐってのいざこざは真田家のみならず天下の形勢にも影響を及ぼしてゆく・・・
ちょっと言いすぎ?
そんな沼田城の印象が少しは形になった気がする。


小さくなってゆく沼田城を見ながら感慨にひたるのだった。


ちなみに妻のマダムのなかでは、「犬伏の別れ」の後に沼田城に孫の顔を見たいと寄った
真田昌幸を城内へ入れなかった小松殿の勇壮が浮かんでいたそうだ・・・どうりで・・・


荒砥城 [城]

戸倉上山田温泉への宿泊を決めていたのでその近くという事で思い出したのが荒砥城。
山城を往時のような姿に再現している事でも有名でNHK大河ドラマ「風林火山」の海ノ口城などのロケにも使用されていたいわば山城テーマパークである。

自動車ですぐそばまで行けるので、じいさんの負担を考えてもベストであった。
山城としての遺構は期待できないが山城テーマパークを堪能しよう。

荒砥城の城歴・・・
村上氏の一族が山田の地に分地して山田氏を名乗りこの地を代々の要害とした。
南北朝時代に主家の村上氏が葛尾城を築いたのでその外郭として山城を構築したのが始まりと言われる。

 天文二十年(1551)荒砥城主で砥石の城代を任されていた山田国雅は武田方の真田幸隆が砥石城を攻略した際に討ち死にした。やがて村上氏の葛尾城も落城し埴科一帯が武田氏の勢力となると荒砥城は武田方に従った屋代政国へ与えられた。
 天文二十二年(1553)九月 上杉景虎の援助もあって村上義清は荒砥城などを一時は奪還するが再び武田軍に攻められ武田方の屋代氏の支配するところとなる。
 天正十年(1582)武田氏が滅亡し、織田信長も討たれると北信四郡は上杉領となる。海津城の副将として荒砥城主・屋代国政の養子・秀正がはいったために荒砥城へは北信諸将が十日交代で在番したという。
 天正十一年(1583)屋代秀正は徳川方に通じて海津城を脱出して荒砥城に籠ったが上杉勢に攻められ落城、秀正は脱出し徳川へ奔った。
 それ以後荒砥城は廃城となった。

それではその荒砥城へと向かおう。
駐車場から少し登ると冠木門の所に入園料を払う事務所がある。
荒砥城.jpg
ちなみに右側の御手洗いの先を行くと・・・

四の郭であった場所に出る。
四の郭.jpg
事務所の門番に袖の下を渡し(入場料ですよ)いざ入城!
入城.jpg
受付のおじさんの話だと今度の大河ドラマのロケに使われたとか。
初回放送するって事は小谷城か?

登り道は舗装されていて三の郭があった場所もこんな感じである。
三の郭.jpg
そして登り続けてゆくと突然目の前に城門が現れる!
二の郭の門.jpg
二の郭の城門であるがなかなかにそれっぽい・・・
一応は櫓門と言うのか、門の上に登れるようになっている。

門をはいると右折れの圧迫感のある虎口となっている。
他の山城で見る虎口の遺構も石積を除けばこのような威圧感をもった造形だったのだろうか。
これだったらもしもの時は埋めちゃっても防御になるかな。
二の郭へ.jpg
目の前に櫓が見えているので登ってみよう。

櫓へ登ると千曲川沿いの平の見通しが恐ろしく良い事に驚く。
南東方面へは戸倉上山田から坂城、上田方面へと千曲川沿いが見渡せる。
和合城の先は上田の平である。
櫓から上田方面.jpg
葛尾城を取り巻く城の連係が良く分る。
地図に合わせるとこんな感じ。
葛尾城周辺図BLG.jpg
下を見ると荒砥城の連郭がなんとなくわかる・・・なんとなくね。
櫓から荒砥城の郭.jpg
五の郭辺りから下へはかつてホテルであった建物が続く。

北側は長野方面へと土地が開けてゆく様子が分かる。
櫓から長野方面.jpg
西方向には荒砥城跡群とも呼ばれる山城跡が並ぶ。
こちらにはまだ遺構が残っていそうだ。
荒砥城跡群.jpg
そして下へ目をやると・・・

二の郭から本郭へとセットのような情景が見られる。
二の郭.jpg
風林火山のテーマ曲が聞こえてきそうだ・・・「こっぺぱ~ん、餡入~れてあ~んぱ~ん!」

なんだかどこから撮っても絵になるなぁ~
ちなみに左の建物(兵舎)内はちょっとした資料館となっている。二の郭門の方から.jpg
本郭の門・・・どこかで見たような・・・デジャヴか?
本郭の門.jpg
同じ城内なのでそうなんだろうけど、二の郭の門へまた戻ったみたいでちょっと混乱する。

虎口の作りも同様
本郭門虎口.jpg
登りきると・・・

本郭に到着!
館が二棟の質素な感じはまさに山城か。
本郭.jpg
ふと二の郭の櫓を見るとなんと物見が!
物見発見!.jpg
この荒砥城の作りだから他の客も絵になるのだな~

そして本郭北の物見では息子とマダムが説明を見ながら軍議中!
「今夜の宿はあの川向こうですぞ!」
本郭北の物見.jpg
本郭西の柵の先に堀切が有りその先に郭跡があるようなのだがその先はやめておこう。
本郭西の郭.jpg
城を下りてゆく途中南側に見える谷間の土地は城の腰と呼ばれこちら側に大手や根小屋があったようだ。
城の腰.jpg
荒砥城を見てきたわけだが造りの良さにはちょっと感激してしまった。
何れ風化してゆく遺構をいかに後世に残すか・・・そのひとつの方法を見た・・・というところであろうか。


櫓にライトアップ用のライトがあったので旅館から荒砥城を見て見た・・・
右上が荒砥城なのだが左の建物はなんだ?
夜景.jpg



参考文献
長野郷土史研究会機関誌 長野 第140号 信濃の武田史跡(1)
宮坂武男 図解 山城探訪 第十集 更埴・長野資料編


松代城 ③ [城]

前回までの俺の城!・・・

ゲリラ戦により敵の兵站を絶った俺の城!
籠城しているにもかかわらず余裕の笑みを浮かべる・・・
「頃合いだな・・・よしっ!火を放て!」
城内の各所から燃え上がる炎・・・って!? 城内?
「・・・よしっ!派手にやろうぜ!」

・・・こっちのほうが面白そうだなぁ・・・

本編は違いますよ。

搦手口より外を見て見ましょう。
搦手口より東側は新堀という堀があった。
新堀.jpg
そして西側には南東の花の丸にかけての長い百間堀があった。
百間堀.jpg
堀の北側がすぐ千曲川流域であったのか、現在の流路になってからこのように堀を設けたのか・・・
資料では話が前後していてよくわからなかった。

再び城内へ戻る・・・
城外よりの搦手口.jpg
北不明門から出た曲輪は紅葉の馬場となっており
東側は土塁と二の丸の堀(外堀)で行き止まりとなる。
二の丸との連絡用に橋が架かっている。
紅葉の馬場.jpg
西側は花の丸まで曲輪が伸びていた。
紅葉の馬場から西.jpg
こちら側から二の丸へ行ってみよう。

千曲川の氾濫により幾度となく修復されてきた本丸北側。
千曲川の向こう岸からは壁のような異様な存在感をもって見えたであろうその面影はないが
綺麗に整備されていてのんびりした空間になっていた。
本丸北面.jpg
と、土塁の途中に通路を発見!
どうやら埋門を復元したものらしい。
埋門.jpg
殿島城のトイレを思い出す・・・

埋門をくぐって二の丸側に出た。
非常時には門を埋めて土塁化させてしまうという名前通りの門・・・
洪水が多いんだったらこの仕掛けは相当危険なような・・・
二の丸側からの埋門.jpg
そして二の丸西側から・・・
二の丸西側を歩く.jpg
南側の太鼓門へと戻った。
二の丸南側を歩く.jpg
まだ二の丸の東側を見てなかった!

本丸東側には東不明門があるのだが北不明門と同様に通常は使用されない門であった。、
しかし洪水で橋が落ちてからは閉め切られて本当に不明門となったのだという。
使われていなかったお陰か石積みは比較的よく残っていたそうだ。
現在は自動車が入れるためのしっかりした橋が架けられている。
二の丸東側を歩く.jpg
この先には二の丸と紅葉の馬場に架かる橋がある。

そして二の丸の東側には石場門があり、こちら側の外には丸馬出しがあったようだ。
石場門.jpg
さてと、元来た南門へと戻ろう。

こうして駆け足ではあったが松代城をめぐる事が出来た・・・
松代城外へ.jpg
綺麗で良かったけど・・・やっぱり山城がいいなぁ~


今回は城歴などは省いてしまったがメジャーな城ということでどうかご勘弁を。
どの城関係の本見ても載ってますよね・・・きっと。
ちょっと資料として松代城(海津城)をめぐる城の位置関係を・・・
旅のしおり用なのでちょっと見難いかも。
海津城周辺図BLG.jpg

それから真田宝物館で購入した二冊のおかげで松代城を楽しむことができた。
復元には細心の注意を払っているようで(当り前か)細かい苦労も知ることができたし、
そうそう、松代城の払い下げられた建物の一部が現在も残っているという話も・・・
松代城資料.jpg
オイラの旅のしおりではちょっと物足りなかったかな・・・

参考文献
松代文化財ボランティアの会 編著 松代城ものがたり
松代文化財ボランティアの会 編著 ボランティアガイドがすすめる 松代見て歩き
長野郷土史研究会機関誌 長野 第178号 特集 松代城


松代城 ② [城]

前回までの俺の城!・・・

敵軍に完全に包囲されてしまった俺の城!
「面白くなってきやがった!」
圧倒的不利な状況であるにもかかわらず自信をのぞかせ薄ら笑いすら浮かべる俺の城!・・・
えっ、あっ足震えてるしィ~
口は渇くしィ~
目ぇかすむしィ~

・・・嘘ですよ、
松代城の戌亥櫓台へ登るところからですよ。
戌亥隅櫓台.jpg
ほぼ正方形の本丸の北東を除く四隅に隅櫓があったそうなのだが、その中でも最大の櫓であった戌亥櫓。
この櫓台の石積は上杉景勝統治下の城代・須田満親の頃(1598~1598)に積まれたとも言われている。
須田満親は上杉家の会津転封を前に亡くなったのだが、
この普請などの財政的な責任を負っての自殺とも言われている。
本丸の基本的な石積みはその後入封した田丸直政によるものだという。

戌亥櫓台の北側
眼下の土塁の先は千曲川の河原であったという。
洪水に悩まされ続けてきた千曲川は寛保二年の大洪水を機に流路を北へと移した。
戌亥櫓から北.jpg
千曲川を越えた先に永禄四年の川中島合戦の激戦地、八幡原がある。

戌亥櫓台の西側には妻女山が見える。
永禄四年の川中島の合戦のときに上杉謙信が陣場としたとされる妻女山は
松代城(海津城)から思いの外近い事に驚かされる。
戌亥櫓から西.jpg
上から見ると二の丸の土塁も綺麗に整備されている。

戌亥櫓台の南側・・・木が邪魔で良く見えない。
石垣の上の木はいらないのでは・・・石垣が崩れちゃうぞ。
石垣の上には各櫓を繋ぐ様に屋根つきの土塀があったようだ。
本丸南西の隅にも未申櫓があり、絵図などには御金蔵と記されているようだ。
戌亥櫓から南.jpg
ちょっと位置を変えて見ると・・・未申櫓台の先に海津城(松代城)の守りの一翼・竹山城が見える。
実はこの竹山城のある山は象山で東側麓には松代大本営・象山地下壕跡がある。
竹山城.jpg

戌亥櫓台上から対角の辰巳櫓台方面(南東)を見る。
辰巳櫓は味噌蔵や土蔵などと呼ばれていたようだ。
現在の本丸はこのように公園化されている。
辰巳櫓台を挟むように左側に東不明門、右側に太鼓門が見られる。
現在の本丸.jpg
その奥に見える山は・・・

おお!あれは知る人ぞ知るミステリースポット 皆神山!
重力を制御してやって来たとも造られたともいわれる皆神山ピラミッド・・・行ってみたい・・・
妻の猛反対を受けて計画段階で断念した皆神山・・・皆神山が俺を呼んでいる!
松代城からの皆神山.jpg
あらゆるオカルト分野を学べるという私立ヴァルトシュタイン学院はまだ無いようだ(笑)

戌亥櫓台の東側
北不明門が本丸北東の位置に見られる。
本丸北東にも櫓台のような石積がみられるのだが櫓は無かったようだ。
正面の突き出たような山は尼巖山で尼巖城があった・・・
普段は面倒なので雨飾城と書いているけど今回はカッコよく尼巖城!
戌亥櫓から東.jpg
海津城東の守りの一翼・尼巖城とその支城もよく見える。
尼巖城が武田方に落とされたことによってこの地への武田氏の北信濃攻略の拠点づくりが始まった。
雨飾城とその支城.jpg
こうしてみると松代城(海津城)は三方を山に囲まれ千曲川によって侵入を拒むといった
自然の地形を巧みに利用した賢固な造りであった事がわかる。

それでは北不明門から搦手側に出て行ってみよう。
北不明門.jpg
北不明門の桝形
本丸より外に張り出した外桝形となっている。
ちなみに太鼓門の桝形は本丸内にある内桝形であった。
北不明門の桝形.jpg
なにか違和感が・・・

北不明門から出て見ると・・・なんだか低い。
忍者ならずとも私でもベリーロールで越えられそうだ・・・
北不明門全景.jpg
実はこの辺りの地面は今よりも4mほど低かったようでこちら側の本丸石垣は10m程になったという。
千曲川の氾濫でどんどん埋もれていったのであろうか。
築城当時は北不明門を出たこの辺りは千曲川の河原であったともいわれている。

搦手口から出て行ってみよう
搦手口.jpg

次回に続く・・・


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