名胡桃城 [城]
この城は沼田城を攻略するために築かれた前線基地・・・
そして沼田城攻略後は沼田城防衛の有力な支城・・・
そして豊臣秀吉の北条征伐から天下取りへの足掛かりとなる事件で有名になった城・・・
そう、ここがかの名胡桃城である!!
・・・えっ!? 知らないって??
沼田城から月夜野バイパス(国道291~国道17号線)を使って猿ヶ京温泉方面へ向かって行くと沼田城からも見えた月夜野大橋を渡る。
月夜野大橋を越えて登り切った辺りに名前もそのまま、名胡桃城址前の信号がある。
かつて名胡桃城の般若郭であった駐車場に止めた車から降りて振り返ってみると
いきなりスイッチの入る景色が目に飛び込んできた!
まだどの郭の堀かはわからないがなんだか落ち着かなくなってきた!!
手持ちの資料もあったのだが、入口の案内所で縄張図やパンフレットが頂けたので
これを手掛かりの城めぐりとなった・・・
と思ったらボランティアの方が来て城案内をしてくださった。
フムフム・・・どうやら先ほどの堀は二の郭の堀だったようだ・・・
もうお気づきかもしれないが現在の名胡桃城址・・・邪魔な木などがほとんどありません。
写真手前が馬出跡で、その先の子供がいる辺りが三の郭となる。
名胡桃城は奥へと郭の続く連郭となっている。
どんどん城内へと入って行くと再び堀で区切られた次の郭が現れる。
写真は三の郭と二の郭の間の堀。
先ほど駐車場から見えた堀で、左側が三の郭で右側が二の郭だ。
二の郭へは木橋が架けられていたようで、虎口は食違い虎口と言われている。
堀の幅が二の郭虎口を境に東西で違うので、土塁で食違いの虎口を形作っていたと思われる。
二の郭へ入り三の郭方面を見る。
二の郭から三の郭に入った辺りからは三日月堀が発掘されているそうだ。
資料を見ると位置と形状から二の郭の西虎口の丸馬出にも見えるのだが・・・いかにか?
写真の赤い線辺りまで名胡桃城の城域であったそうだ。
名胡桃城で一番広い二の郭を通り本郭へと向かう。
ちなみにこの二の郭の門は三の郭側と本郭側と両側から発掘されているらしい。
そんなことからこの二の郭が本郭なのではなかろうかと書かれている本もある。
本郭とは深い堀で区切られており、かつては木橋が架けられていたそうだ。
堀の深さを感じながら本郭へと渡る。
堀へと下りながら見えた駐車場の般若郭の先端部。
名胡桃城本郭へとたどりついた。
案内の方と名胡桃城の話はもとより、ここにも観光バスがやってくる城事情や最近行ったという私の地元の新府城や谷戸城などの話題など、落葉の名胡桃城本郭に城談議の花が咲く。
そしてさらにその先にあるささ郭へ。
谷のような堀の先にささ郭はある。
ささ郭の東側には土塁状の地形も残っている。
ささ郭からの名胡桃城東側・・・よく見る山城の景色ではあるが視界を妨げる背の高い木は無い
そして西側・・・国史跡以外ではあまりお目にかかれない手入れっぷりに驚いた!
ささ郭から正面には利根川を挟んで明徳寺城が見える・・・って案内の方に教えてもらった。
そして南東には沼田城が・・・ちょっとぉ! 右の小山の木立で見えないのよねぇ~
そしてそして! 最先端部の物見郭には物見が・・・いや!ほらっちょ氏が・・・いつの間に・・・
さすが歴戦の猛者は”はしっこい”
この ささ郭から辺りを見ると沼田城とは反対側の段丘上である事をあらためて感じる。
名胡桃城の歴史は案内所で頂いた名胡桃城址のパンフレットから紹介しよう
歴史の流れを変えた名胡桃城
●名胡桃館(なぐるみやかた)
名胡桃城は室町時代に、沼田氏の一族といわれる名胡桃氏が、館(般若郭・現在の駐車場)を築いたのがはじまりといわれています。この付近は、上野と越後を結ぶ三国峠道と清水峠道、さらに鳥居峠を越えて信濃に通じる道にも近いために、軍事上戦略的に重要視されていたのです。天文21年(1552)、北条氏康に攻められ、上野の平井城(藤岡市)にいた関東管領上杉憲政は、三国峠を越えて越後の長尾景虎(上杉謙信)に救援を求めました。景虎は憲政の要請に応じて初めて上野に侵攻し(越山)、沼田城の北条氏と対峙したのですが、戦いを交えず越後に兵を引きました。謙信が上野に侵攻した回数は14回に及んだと言われています。
●真田昌幸が築いた名胡桃城
天正6年(1578)3月 謙信が春日山城で急逝すると、北条氏政は上野に侵攻してきました。武田勝頼も上野に侵攻し、謙信が没して70日を過ぎた同年5月23日には布施(みなかみ町)を中心に勢力を持っていた六人衆に対して、「沼田を手中にした時には一人15貫文を与える」という朱印状を出しています。
天正7年には、勝頼の命を受けた真田昌幸が信濃から吾妻・利根に侵攻し、点在する山城・砦を手中にして、小川城の小川可遊斎とともに名胡桃館を攻略しました。そして沼田城を手中にする前線基地として、隣に名胡桃城を築いたのです。
天正8年 昌幸は、念願の沼田城(北条氏の城代 藤田信吉)を戦わずに、調略しました。
天正10年(1582)には、3月11日に武田氏が滅び、6月2日に織田信長が本能寺に倒れるという大変事が起こりました。武田・織田という強力な大名の失せた情勢の中、同年10月29日、北条氏政と徳川家康の間で重大な約定が結ばれました。それは「北条氏が真田氏と領有を争っていた利根・吾妻の二郡は北条氏に、甲斐の都留郡と信濃の佐久郡は徳川氏に」というものですが、この約定は真田昌幸には知らされませんでした。
天正11年 昌幸は徳川氏の支援を得て、信濃に上田城を築きました。
天正13年 昌幸は「利根・吾妻の二郡を北条氏に渡すように」という家康からの要請を拒絶し、上田城に攻めてきた徳川軍を撃退しました(第一次上田合戦)。同年 豊臣秀吉が関白に叙任されました。
天正14年12月4日 天下統一を目前にしていた秀吉は関東・奥州の大名に対して私闘を禁ずる「関東奥惣無事令」を出し、その直後の12月19日、太政大臣に叙任されました。
天正17年2月13日 秀吉の臣下となっていた真田昌幸の嫡子 信幸は、徳川家康の元に出仕しました。この頃、関白太政大臣秀吉は全国の諸大名に上洛を命じていました。しかし、命に従わない大名の一人北条氏は、上洛の条件として利根・吾妻地域の領有を要求しました。これに対して昌幸は「沼田城は渡しても臣の墳墓の地である名胡桃城を渡すことはできない」と訴えたと伝えられています。このため、秀吉は津田隼人正と富田左近将監を検分使として派遣し、その報告を基に「利根川を境として、沼田城を含む東部一帯を北条に、名胡桃城を含む西部一帯 ただし赤谷川の左岸に限って真田に」という裁定を下しました。この結果沼田城には鉢形城主北条氏邦の重臣 猪俣邦憲が、名胡桃城には真田昌幸の家臣 鈴木主水が城代として入りました。
しかし 同年10月下旬頃、沼田城代猪俣邦憲が名胡桃城を不法に攻略するという事件が起きたのです。報告を受けた秀吉は激怒し、11月21日付けの書状を真田昌幸に与え、北条氏直に対して11月24日 五条からなる布告を発しました。これに加わった諸大名の率いる兵力は20万とも22万ともいわれ、国内の戦いでは最大のものと伝わっています。
天正18年3月に始まった小田原攻めは、4ヶ月後の7月5日、北条氏政・氏直が秀吉の前に降伏することによって終わりました。強硬派として絶対の力を持っていた氏政と氏照は自刃しました。五代当主の氏直は家康の娘婿であったため助命され高野山に追放となりましたが、翌年には許されて一万石を給されました。しかし 氏直は30歳で病没し、五代百年余りにわたって関東に覇を唱えた北条氏は、ここに滅亡したのです。
その後 名胡桃城は廃城となり、結果的に城として機能したのはわずか10年の間でした。この名胡桃城の領有をめぐる小さな事件が、120年余り続いた戦国時代に終止符を打つこととなり、日本の歴史の流れを変えるきっかけともなったのです。そのため、名胡桃城は日本史上大変重大な山城であったといえます。
う~む・・・「日本史上大変重大な山城」名胡桃城侮りがたし・・・おそるべし!
小説『真田太平記』での名胡桃城事件は真田昌幸の苦渋の決断が描かれている。
名胡桃城を任せている鈴木主水は真田昌幸とは昵懇の間柄で、身籠った愛妾のお徳を任せたりもしている。お徳は名胡桃城で無事女子を出産し、お菊と名付けられたその子は鈴木主水夫妻にも可愛がられて育てられていた。
そんな頃に豊臣家からの裁定があり沼田城を手放すこととなり、
名胡桃城は国境の最前線の城となる。
そして事件は起こった・・・というか起こされた!
上州を割譲した後も上洛に従わない北条氏直にしびれを切らした豊臣秀吉は、かねてから潜入させていた忍びの者を動かす・・・沼田城代・猪俣邦憲に北条氏直からの偽の書状を渡し名胡桃城を攻めさせるのだ。さらには名胡桃城代・鈴木主水をも真田昌幸からの偽の書状で城を留守にさせて簡単に城を落とさせる算段だ。
その豊臣の忍びの者が沼田城へ向かう途中、
偶然旧知の真田の草の者(忍びの者)お江に出会う。
旧恩のある豊臣の忍びはお江にこれから起こることを知らせる。
お江は急ぎ真田昌幸にその事を伝えるが、昌幸は豊臣方の策を見抜き動かないと決める。
義理堅く責任感の強い鈴木主水が城をあけている間に攻め落とされたと知ればどんな行動をとるか・・・昌幸は重く苦しい眠れぬ一夜を明かすのだった・・・
名胡桃城は北条方に落とされ、偽書で城を留守にした鈴木主水は責任をとって自害・・・
割譲の裁定を無視し惣無事令を破った北条家は討たれる口実をつくる事となった。
こんな感じで物語では名胡桃城の事件を豊臣方の策謀として描いている。
真田太平記から導かれた我々には悲劇の城・・・名胡桃城なのである。
沼田城、名胡桃城と真田氏のみならず誰もが拠点としたかった重要な城跡を見てきた。
信州上田の盆地からやって来た真田氏がこの地を死守したかったのは守りからの戦略でなく
外へ出て行くための足掛かりを維持するための攻めの戦略だったのかもしれないとも思えた。
次は真田氏上州攻略の要・岩櫃城へ!
そして沼田城攻略後は沼田城防衛の有力な支城・・・
そして豊臣秀吉の北条征伐から天下取りへの足掛かりとなる事件で有名になった城・・・
そう、ここがかの名胡桃城である!!
・・・えっ!? 知らないって??
沼田城から月夜野バイパス(国道291~国道17号線)を使って猿ヶ京温泉方面へ向かって行くと沼田城からも見えた月夜野大橋を渡る。
月夜野大橋を越えて登り切った辺りに名前もそのまま、名胡桃城址前の信号がある。
かつて名胡桃城の般若郭であった駐車場に止めた車から降りて振り返ってみると
いきなりスイッチの入る景色が目に飛び込んできた!
まだどの郭の堀かはわからないがなんだか落ち着かなくなってきた!!
手持ちの資料もあったのだが、入口の案内所で縄張図やパンフレットが頂けたので
これを手掛かりの城めぐりとなった・・・
と思ったらボランティアの方が来て城案内をしてくださった。
フムフム・・・どうやら先ほどの堀は二の郭の堀だったようだ・・・
もうお気づきかもしれないが現在の名胡桃城址・・・邪魔な木などがほとんどありません。
写真手前が馬出跡で、その先の子供がいる辺りが三の郭となる。
名胡桃城は奥へと郭の続く連郭となっている。
どんどん城内へと入って行くと再び堀で区切られた次の郭が現れる。
写真は三の郭と二の郭の間の堀。
先ほど駐車場から見えた堀で、左側が三の郭で右側が二の郭だ。
二の郭へは木橋が架けられていたようで、虎口は食違い虎口と言われている。
堀の幅が二の郭虎口を境に東西で違うので、土塁で食違いの虎口を形作っていたと思われる。
二の郭へ入り三の郭方面を見る。
二の郭から三の郭に入った辺りからは三日月堀が発掘されているそうだ。
資料を見ると位置と形状から二の郭の西虎口の丸馬出にも見えるのだが・・・いかにか?
写真の赤い線辺りまで名胡桃城の城域であったそうだ。
名胡桃城で一番広い二の郭を通り本郭へと向かう。
ちなみにこの二の郭の門は三の郭側と本郭側と両側から発掘されているらしい。
そんなことからこの二の郭が本郭なのではなかろうかと書かれている本もある。
本郭とは深い堀で区切られており、かつては木橋が架けられていたそうだ。
堀の深さを感じながら本郭へと渡る。
堀へと下りながら見えた駐車場の般若郭の先端部。
名胡桃城本郭へとたどりついた。
案内の方と名胡桃城の話はもとより、ここにも観光バスがやってくる城事情や最近行ったという私の地元の新府城や谷戸城などの話題など、落葉の名胡桃城本郭に城談議の花が咲く。
そしてさらにその先にあるささ郭へ。
谷のような堀の先にささ郭はある。
ささ郭の東側には土塁状の地形も残っている。
ささ郭からの名胡桃城東側・・・よく見る山城の景色ではあるが視界を妨げる背の高い木は無い
そして西側・・・国史跡以外ではあまりお目にかかれない手入れっぷりに驚いた!
ささ郭から正面には利根川を挟んで明徳寺城が見える・・・って案内の方に教えてもらった。
そして南東には沼田城が・・・ちょっとぉ! 右の小山の木立で見えないのよねぇ~
そしてそして! 最先端部の物見郭には物見が・・・いや!ほらっちょ氏が・・・いつの間に・・・
さすが歴戦の猛者は”はしっこい”
この ささ郭から辺りを見ると沼田城とは反対側の段丘上である事をあらためて感じる。
名胡桃城の歴史は案内所で頂いた名胡桃城址のパンフレットから紹介しよう
歴史の流れを変えた名胡桃城
●名胡桃館(なぐるみやかた)
名胡桃城は室町時代に、沼田氏の一族といわれる名胡桃氏が、館(般若郭・現在の駐車場)を築いたのがはじまりといわれています。この付近は、上野と越後を結ぶ三国峠道と清水峠道、さらに鳥居峠を越えて信濃に通じる道にも近いために、軍事上戦略的に重要視されていたのです。天文21年(1552)、北条氏康に攻められ、上野の平井城(藤岡市)にいた関東管領上杉憲政は、三国峠を越えて越後の長尾景虎(上杉謙信)に救援を求めました。景虎は憲政の要請に応じて初めて上野に侵攻し(越山)、沼田城の北条氏と対峙したのですが、戦いを交えず越後に兵を引きました。謙信が上野に侵攻した回数は14回に及んだと言われています。
●真田昌幸が築いた名胡桃城
天正6年(1578)3月 謙信が春日山城で急逝すると、北条氏政は上野に侵攻してきました。武田勝頼も上野に侵攻し、謙信が没して70日を過ぎた同年5月23日には布施(みなかみ町)を中心に勢力を持っていた六人衆に対して、「沼田を手中にした時には一人15貫文を与える」という朱印状を出しています。
天正7年には、勝頼の命を受けた真田昌幸が信濃から吾妻・利根に侵攻し、点在する山城・砦を手中にして、小川城の小川可遊斎とともに名胡桃館を攻略しました。そして沼田城を手中にする前線基地として、隣に名胡桃城を築いたのです。
天正8年 昌幸は、念願の沼田城(北条氏の城代 藤田信吉)を戦わずに、調略しました。
天正10年(1582)には、3月11日に武田氏が滅び、6月2日に織田信長が本能寺に倒れるという大変事が起こりました。武田・織田という強力な大名の失せた情勢の中、同年10月29日、北条氏政と徳川家康の間で重大な約定が結ばれました。それは「北条氏が真田氏と領有を争っていた利根・吾妻の二郡は北条氏に、甲斐の都留郡と信濃の佐久郡は徳川氏に」というものですが、この約定は真田昌幸には知らされませんでした。
天正11年 昌幸は徳川氏の支援を得て、信濃に上田城を築きました。
天正13年 昌幸は「利根・吾妻の二郡を北条氏に渡すように」という家康からの要請を拒絶し、上田城に攻めてきた徳川軍を撃退しました(第一次上田合戦)。同年 豊臣秀吉が関白に叙任されました。
天正14年12月4日 天下統一を目前にしていた秀吉は関東・奥州の大名に対して私闘を禁ずる「関東奥惣無事令」を出し、その直後の12月19日、太政大臣に叙任されました。
天正17年2月13日 秀吉の臣下となっていた真田昌幸の嫡子 信幸は、徳川家康の元に出仕しました。この頃、関白太政大臣秀吉は全国の諸大名に上洛を命じていました。しかし、命に従わない大名の一人北条氏は、上洛の条件として利根・吾妻地域の領有を要求しました。これに対して昌幸は「沼田城は渡しても臣の墳墓の地である名胡桃城を渡すことはできない」と訴えたと伝えられています。このため、秀吉は津田隼人正と富田左近将監を検分使として派遣し、その報告を基に「利根川を境として、沼田城を含む東部一帯を北条に、名胡桃城を含む西部一帯 ただし赤谷川の左岸に限って真田に」という裁定を下しました。この結果沼田城には鉢形城主北条氏邦の重臣 猪俣邦憲が、名胡桃城には真田昌幸の家臣 鈴木主水が城代として入りました。
しかし 同年10月下旬頃、沼田城代猪俣邦憲が名胡桃城を不法に攻略するという事件が起きたのです。報告を受けた秀吉は激怒し、11月21日付けの書状を真田昌幸に与え、北条氏直に対して11月24日 五条からなる布告を発しました。これに加わった諸大名の率いる兵力は20万とも22万ともいわれ、国内の戦いでは最大のものと伝わっています。
天正18年3月に始まった小田原攻めは、4ヶ月後の7月5日、北条氏政・氏直が秀吉の前に降伏することによって終わりました。強硬派として絶対の力を持っていた氏政と氏照は自刃しました。五代当主の氏直は家康の娘婿であったため助命され高野山に追放となりましたが、翌年には許されて一万石を給されました。しかし 氏直は30歳で病没し、五代百年余りにわたって関東に覇を唱えた北条氏は、ここに滅亡したのです。
その後 名胡桃城は廃城となり、結果的に城として機能したのはわずか10年の間でした。この名胡桃城の領有をめぐる小さな事件が、120年余り続いた戦国時代に終止符を打つこととなり、日本の歴史の流れを変えるきっかけともなったのです。そのため、名胡桃城は日本史上大変重大な山城であったといえます。
う~む・・・「日本史上大変重大な山城」名胡桃城侮りがたし・・・おそるべし!
小説『真田太平記』での名胡桃城事件は真田昌幸の苦渋の決断が描かれている。
名胡桃城を任せている鈴木主水は真田昌幸とは昵懇の間柄で、身籠った愛妾のお徳を任せたりもしている。お徳は名胡桃城で無事女子を出産し、お菊と名付けられたその子は鈴木主水夫妻にも可愛がられて育てられていた。
そんな頃に豊臣家からの裁定があり沼田城を手放すこととなり、
名胡桃城は国境の最前線の城となる。
そして事件は起こった・・・というか起こされた!
上州を割譲した後も上洛に従わない北条氏直にしびれを切らした豊臣秀吉は、かねてから潜入させていた忍びの者を動かす・・・沼田城代・猪俣邦憲に北条氏直からの偽の書状を渡し名胡桃城を攻めさせるのだ。さらには名胡桃城代・鈴木主水をも真田昌幸からの偽の書状で城を留守にさせて簡単に城を落とさせる算段だ。
その豊臣の忍びの者が沼田城へ向かう途中、
偶然旧知の真田の草の者(忍びの者)お江に出会う。
旧恩のある豊臣の忍びはお江にこれから起こることを知らせる。
お江は急ぎ真田昌幸にその事を伝えるが、昌幸は豊臣方の策を見抜き動かないと決める。
義理堅く責任感の強い鈴木主水が城をあけている間に攻め落とされたと知ればどんな行動をとるか・・・昌幸は重く苦しい眠れぬ一夜を明かすのだった・・・
名胡桃城は北条方に落とされ、偽書で城を留守にした鈴木主水は責任をとって自害・・・
割譲の裁定を無視し惣無事令を破った北条家は討たれる口実をつくる事となった。
こんな感じで物語では名胡桃城の事件を豊臣方の策謀として描いている。
真田太平記から導かれた我々には悲劇の城・・・名胡桃城なのである。
沼田城、名胡桃城と真田氏のみならず誰もが拠点としたかった重要な城跡を見てきた。
信州上田の盆地からやって来た真田氏がこの地を死守したかったのは守りからの戦略でなく
外へ出て行くための足掛かりを維持するための攻めの戦略だったのかもしれないとも思えた。
次は真田氏上州攻略の要・岩櫃城へ!
2013-12-27 17:18
nice!(2)
コメント(2)
トラックバック(0)
さすが今回もイイねぇ(^^)
ここにリンクを貼り、オレの記事は写真のみとしよう。
内容も観光モードで。
つーか、直接リンクにすっか♪
by ほらっちょ (2013-12-28 08:33)
なかなかすすまなくて申し訳ない
またフチ子でお茶を濁してしまいました・・・
もうすぐ次回作が仕上がりますので
乞うご期待!
by 俺の城! (2014-01-02 12:12)