松代城 ① [城]
「俺の城!よォ~目覚めるのぢゃ~~~」
というわけでようやくの記事復活!
旅と仕事と晩酌とで今日までほったらかしの”俺の城!”
まだ落城せずに賢固さを保っている我が城はなかなかのものだ・・・
という訳ではなくただ相手にされていないだけのようだ・・・トホホ
溜めに貯めたネタを何から始めてよいのやら・・・とりあえずは、じいさんと行った城めぐりからかな?
じいさんの体調も考慮して今年は大分マイルドな行程であった。
とにかく自動車で近くまで行ける所をチョイスした。
まず訪れたのが松代城と真田宝物館
真田宝物館を見学してからいざ松代城へ!
踏切を越えればそこは松代城。
かつては南側正面の丸馬出と三日月堀がありこの辺りは三の丸であったか。
踏切を越えると正面には二の丸南門となる。
と、その前に・・・
踏切を越えて南西方向には花の丸と呼ばれた曲輪があった。
火災や大水によって幾度となく建て替えられてきた本丸御殿を政務の場兼藩主の住居として
機能ごと移築して花の丸御殿が建てられた。
現在は団地になっているようだ。
それでは、二の丸へ入ってゆこう・・・と、そのまま正面の本丸太鼓門へ。
石積みの色の違いでも修復箇所が分る。
太鼓門二の門は「引橋御門」とも呼ばれていて本丸へ通じる橋は当初は「引橋」であったと考えられているようだ。
橋を渡って二の門・橋詰門をくぐると太鼓門と桝形の構えを見せる。
太鼓門をくぐるとそこは本丸である。
本丸へ入ると70m四方位の庭園となっていた。
往時は本丸御殿が建っていたのだが火災や水害による幾度かの建て直しの末、花の丸へとその機能は移された。
太鼓門より入って北東側に見えた門は北不明門で搦手の門だ。
東にも石垣の切れ間があり、そこには東不明門があった。
こちらの石垣は損傷も少なく良く残っていたそうだ。
大正十年(1921)真田信之が開府して300年の節目に建てられた海津城址之碑。
松代城本丸の北西の方角にある戌亥櫓台
松代城内最大の櫓台で最古の石積みでもあるという。
天守と呼ばれる建物がなかった松代城にあってその役割を果たした二層の櫓が建てられていた。
しかしながら櫓台上面の1/4程度の建物であったという。
展望台になっているので登って松代城と周辺を見てみよう。
次回に続く・・・
桝形城 [城]
久々の本業復帰!?である。
一月中に訪れたのだがようやく記事としてまとめる事が出来る・・・遅!
写真には雪があるしね・・・
八ヶ岳エコーラインが全面開通したので、試走がてら茅野市側の終点近くにある桝形城、原の城、朝倉山城と訪れてみることにした。
これらの城跡は同地区に密集していて「桝形城」と「原の城」などは二つで「湯川城」として機能していたのではとさえ言われている。
はたしてどのような城跡であろうか・・・
桝形城
旧大門街道沿いを案内板に従って入って行くと畑に行きつく・・・その辺りが桝形城となる。
畑の中にポツンと案内板らしきものが見える・・・どうやらあの辺らしい。
正面の山に朝倉山城が見られる。
桝形城を含め周囲を広範囲に見渡せる位置に朝倉山城はある。
案内板には”信玄公ゆかりの地 桝形城跡”とあり、そして<図>のみ・・・ダ・イ・タ・ン!
実は先ほどの大門街道沿いに説明があったりするのだが、それは次回「原の城」で見てみよう。
昭和四十二年からの圃場整備により全面田畑となってしまったが、それまでは丸馬出と三日月掘を有する武田氏築城の特徴を持つ城跡であったという。
また信玄の棒道と呼ばれる軍用道路の大門峠口に位置する兵站基地であったとも言われている。
築城も信濃攻略の兵站基地とされたその頃のものであろうか・・・
この案内板辺りに桝形城の丸馬出があったということであろう。
桝形城の先端
滝の湯川と砦の沢が合流している
滝の湯川沿いの斜面
砦の沢沿いの斜面
圃場整備により砦の沢は農道を境に埋め立てられている。
桝形城を台地の下方から見てみる。
滝の湯川と砦の沢により台地から独立した舟形の地形をしている。
朝倉山城から見た桝形城
桝形城内の赤丸辺りに丸馬出があった。
「図解 山城探訪」に昭和三十年頃の丸馬出の確認できる写真が掲載されていた。
案内板の図にあったように桝形城を仕切るような土塁と、その切れ目の先に半円状の前面に土塁を有する馬出が確認できる写真であるのだ。
また虎口には礎石もあったそうで、しっかりとした門が想像できるようだ・・・これは個人の保管している”桝形城虎口”の礎石の写真だったけど・・・
いずれにせよここ桝形城の丸馬出は築城時期も古く武田氏の造った丸馬出の中でも初期のものであったと考えられるようだ。
ちなみに古い航空写真で確認してみようと試みたのだが・・・ちょうど写真の端っこで・・・無念!
この丸馬出を一つの城の大手虎口の馬出と見るのか、一の曲輪の馬出と見るのかでこの城の見方が大分変わってくる・・・これもまた城跡を楽しむ謎と言えよう。
次回の「原の城」で何か見えてくるのか!?
参考文献
宮坂武男著 「図解 山城探訪 第一集 諏訪資料編」
殿島城 [城]
と資料で近くの城跡を探すと、わりと遺構もしっかり残っていそうな城を発見。
それが今回の殿島城だった。
一夜の城まで来た県道209号線をそのまま道なりに進んで(西方向)行くと「KITZ伊那工場」が右手(北方向)に見えてくる。その辺りの歩道橋をくぐってすぐを左折すると団地内へ入って行く。
団地内をそのままゆっくり進んで突き当たりを右折すると緑地が見える。
そこが殿島城址公園となっている殿島城だ。
殿島城は天竜川の段丘上に位置し、主郭部の周りを二重の堀と土塁が取り巻いている。
天竜川両岸には段丘を利用した様々な城が見られるようだ。
宮坂武男著 「図解 山城探訪 第四集 上伊那資料編」より殿島城縄張図
駐車場から見える位置に殿島城主郭部への虎口がある。
主郭部は高い土塁で囲まれていて中は見えない・・・公園としては危ないのでは・・・
虎口の崩れ止めに石垣とコンクリートで補強し、それっぽい城門が設けられている。
通路両側には二重の堀と土塁が見られる。
北側の堀底を歩いてみた・・・これは、このまま段丘の下まで行っちゃうな・・・
振り返ると段丘上に主郭部を掘り切った様子が分かる。
北側の大外の土塁上から堀を見る。
殿島城主郭の堀は、水を流しながら掘った流し掘りであろうという。
虎口付近の堀と土塁
浅くなってしまってはいるがこの辺りは三重の堀と土塁が確認できる。
虎口から入ると四方を土塁に囲まれた主郭部となる。
すぐ近くに案内板と殿島城址碑があった。
いつものように案内板を見てみよう。
殿島城の歴史
殿島城は古くは本城と呼ばれ、稀に見る大きな平山城であった。土居は高く濠は深く、城下一帯は沼地で、北方には御射山を隔てて物見城があった。
天文年間(1532~1555)の始めに、殿島大和守重国が千五百石を拝領してここに築城し、この地方をを治めた。
弘治二年(1556)武田信玄が伊那に侵入し、廻状によって降伏を迫った。大和守をはじめとする伊那の諸氏は防備を堅くし毅然としてこれに対抗したが力及ばず、狐島にて磔にされ、後に黒河内(長谷)の八人塚に葬られた。その後十六世紀後半まで、高遠城の支城であったという説もある。
大正六年、東春近小学校運動場設置のため濠の一部が埋められた。その後、学校農園として芋や野菜が作られていた時代もあった。
昭和六十三年に伊那市の都市公園として整備され、現在に至っている。
武田氏支配の城となってからの記述はなかったが、その後は廃城となったのであろうか。
どうやら城域は、北は段丘上から県道209号線で下りて行く宮狭間坂から、南は火沢洞とよばれるやはり段丘上から下りる道路のある谷辺りまでらしい。
さらに広い範囲で見れば北の三峰川、南の大沢川、そして西の天竜川に囲まれた土地を城下にみたてる事もできそうだ。
再び殿島城めぐりに戻ろう。
東側土塁に怪しげな基地を発見!・・・実は土塁を利用したトイレだった。
土塁内部にトイレが作れるほどの土塁という事か・・・でも冬期使用不可。
その東土塁上から東側の堀と土塁を見る。
こちらにも二重の堀と土塁が残る。
主郭土塁下は犬走りのようになっている。
100m四方位の広さのある殿島城主郭部。
土塁南側に二の曲輪からの虎口があった。
現在二の曲輪は団地となっている・・・こちら側は住宅が近いのでウロウロするのも気が引ける。
南側も二重の堀と土塁が見られる。
写真は二の曲輪側の堀で北の堀同様深く段丘下まで掘りきられている。
南の主郭側の堀。
南の虎口から再び城内へ入り南側の土塁に沿って進む。
こちら側は遊具などが置かれ公園らしくなっている。
写真では分かりづらいが、途中土塁が大きくせり出して滑り台となっていた・・・
これが元々の形状を利用したのであれば櫓台であったのかも。
西側の土塁は段状に整備されていた。
二か所ほど湾曲してせり出していたがこちらも櫓台だったのか?
殿島城西側は段丘の端で崖のようになっている。
眼下は天竜川にそって南北に見通しが出来たと思われる。
西土塁の下にも犬走りのような段があった。
伊那地方の歴史に暗いので土地由来の人物、史跡とつながりが見えてこないのが実に残念だ。
全くの勉強不足と行ったところだ・・・
しかしながら幾重にも掘り切られた堀と土塁はなかなかの見応えであった。
参考文献
宮坂武男著 「図解 山城探訪 第四集 上伊那資料編」
一夜の城 [城]
先に言っておきたいのだが、保存だ工事だと無責任な事を言うつもりは毛頭ない。
ただ、そこにどんな遺構があるのか、見てきた事を記事にするつもりだ。
よく読んでいる官兵衛さんのブログ「城郭 etc」に
「一夜の城の土塁 市道拡幅か遺跡保存か」という記事があった。
一夜の城(いちやのじょう)と呼ばれる遺構の土塁の一部が市道拡幅のために取壊されそうになっているという話題であるのだが、住民主導の必要にせまられた工事のようなのだ。
検索してみると中日新聞や地元のウェブニュースなどで取り上げられており、その難しさが伺える。
天正十年(1582)の高遠城攻めの際の織田軍の陣城であったという一夜の城・・・
工事か保存かでゆれている注目の現場へ行ってみることにした。
一夜の城
今回は茅野から杖突峠を越えて高遠へ入り、一夜の城へ向とかうルートをとった。
茅野から国道152号線で杖突峠を越え高遠城を目指す・・・そこでもいいいか・・・と思う気持ちをグッと抑え高遠城を横目に高遠大橋を渡り「小原」の信号を道なりに右へ曲がって行き県道209号線へと進んで行くと「三峰川橋南」の信号に突き当たるので左折する。
少し行くと県道210号線と別れるので、右折して県道209号線を走り続ける。
しばらく走り続けると左手に花ノ宮八幡神社が見えてくるので、そこに駐車するのが良い・・・
一夜の城周辺は問題になっている通り狭いので自動車で乗り込むのはタブーだ。
八幡神社からは伊那から箕輪方面へとよく見えた。
高遠城方向は山に阻まれ直接の見通しは出来ない。
高遠城までだいたい6kmといったところだろうか。
参道へ入ってすぐ左に道があるのでココを行くと良い・・・お参りをすませてからね。
少し歩くと土塁状の地形が見えてくる。
でも畑・・・北側と西側の土塁はだいぶ畑と同化してきていて土手といった感じ。
東側の土塁を中心に”コ”の字型に土塁が残っている。
一夜の城の中で一番しっかり残っている北東角の土塁。
その土塁上には第六天神が祀られている。
この辺りの土塁は二段に造られているようにも見える。
この東側土塁に面する道路が問題の道路らしい。
写真右下に黄色い杭が見えるが、この杭までの拡幅だろうか。
東側の土塁沿いに進むと切れ目・・・虎口が。
虎口は馬入れとして利用されているようだ。
「馬入れ」が方言だといけないので説明しておくと、畑と道路との出入口である。
虎口の土塁上に一夜の城の標柱があった。
横に簡単な説明があったのでいつものように見てみよう。
天正十年(1583)三月、仁科五郎盛信以下、伊那の地侍が守る高遠城に織田の軍勢が迫りました。信長の生涯を記した「信長公記」には決戦の前夜、織田の大将織田信忠(信長の長男)は”かいぬま原”に陣取ったとあり、その本陣跡がここです。昭和三十年代にはほとんどが畑に開墾されましたが東北角の厚みのある土塁は当時のままです。
関係無い話しだがここには仁科盛信と記されていたが、長野県歌「信濃の国」のように仁科信盛と記す場合もある。古い文章にも「盛信」「信盛」とどちらも登場するわけだが、ただの書き間違えなのであろうか?
高遠町歴史博物館で見知った話に「盛信」の場合は仁科氏の「盛」を前として、「信盛」の場合は武田一族として「信」を前にして使い分けたというものがあり、ふ~んって思いました、という話です。
東側の土塁は50mほどの長さで、高さは2~3m位ある。
南東角から東側土塁の内側を見る。
こちらはだいぶがれ落ちて高さを感じない。
写真中央下くらいから白いラインと黄色い杭が見えるが、ここまでが削られるのであろうか。
南側の土塁も外側からは高いが、内側はがれ落ちている。
帰り際に車がすれちがう所を目にした・・・一台が虎口によけてやり過ごしていた。
住民側の意見は歴史的な重要性は理解しつつも生活道路の整備の方が重要と一貫しているようだが、これが日常であればそうも思えてくるだろう。
織田軍は高遠城攻略のために陣城を築き始めたが、使用する前に高遠城は落ちてしまった。
そのために突貫工事の本陣だけが「一夜の城」という名と共に残ったという事であろうか。
または一夜だけ使用したと言う事であろうか・・・
これから発掘調査などで「一夜の城」を解き明かすようだが、どの時代に造ったという事実以外は何も出てこないのかも知れない・・・となぜだか思えてしまった。
参考文献
宮坂武男著 「図解 山城探訪 第四集 上伊那資料編」
大島城 ③ [城]
大島城の天竜川に面した東端の主郭部(一の曲輪)へと向かう。
スロープ状の通路を一の曲輪へと登って行く。
一の曲輪へと登り切った両側は土塁状になっていて虎口の体を成している。
そしてその傍らには朽ちた「史蹟 大島城址」の標柱が・・・
昔から史蹟として親しまれてきた様子が伺えるが、
今ではマレットゴルフ場として親しまれているようだった。
大島城の主郭部(一の曲輪)
西面から北面へと土塁も見られる。
平成二年(1990)の公衆トイレ建設時の発掘調査で虎口の木戸跡、建物の礎石、雨落溝などが確認され、陶器、かわらけ(素焼土器)、木戸肘金具、銭貨などが出土したそうだ。
また米蔵跡と伝わる辺りからは炭化米が多量に出土したそうで、これは天正十年(1582)に織田氏が侵攻してきた時に自落した時のものだそうだ。
主郭部には大島城の役割からも大きめの建物がいくつかあったのかもしれない。
いつものように・・・石碑の前ではないが記念撮影!
そしていつものように案内板があったので見てみよう。
二つあったのだが大体内容は似ているので読みやすい新しい方を・・・
松川町指定文化財 大島城跡
平安時代の末、南信濃源氏片桐氏は片桐郷の南に続く大島郷に分知しました。それは片桐兵庫助為行の八男の片桐八郎宗綱で、在名をもって大島八郎宗綱を名のったのが大島氏のはじめです。大島氏は鎌倉幕府に仕え、以後中世を通じてこの一帯を領有・統治し、大島城・北の城・沼の城などを築きました。
南信濃攻略をうかがっていた甲斐の武田氏は天文二十三年(1554)一挙に伊那郡に侵入し、ここを手中にした晴信(信玄)は秋山信友を飯田城におき伊那谷を統治しました。
元亀二年(1571)武田氏は大島城を東海地方攻略、ならびに京へ上るための拠点とするため、伊那郡代秋山信友に命じて大島城の大改修を行いました。このとき下伊那十九の郷民と二衆を城普請の人足として強制的に動員したことを記す武田氏の朱印状が残っています。現在の大島城はこの時に構築されたもので、武田流築城法による馬出や三日月掘、三つの曲輪とそれを取り巻く迷路のような空堀が当時のままに残されています。
信玄亡き後の勝頼の代、天正十年(1582)織田氏が伊那郡に侵入したとき、大島城は信玄の弟の信廉が守っていましたが、信廉ら有力な武将は織田氏の進撃に驚き、夜中に逃亡しことが『信長記』に記されています。
城内からは建物の礎石や雨落溝の石列、陶磁器や古銭、焼米などが発見され、井戸跡には落城の際お姫様が金の鶏を抱いて身を投げたという悲しい伝説も伝えられています。
ちなみにこの大島氏は岩村城へ秋山信友に従って行って共に処刑された大島氏である。
主郭北側から天竜川上流域を見る。
天竜川の流音は凄まじく、緊迫した守備兵は織田軍が夜襲をかけてきたと驚いたとも・・・
主郭南側から天竜川下流域を見る・・・一角でいいので木を切って見通せるようにしてほしい。
天竜川は一度右へ大きくうねり飯田方面へと流れて行く。
谷が開けているので飯田方面からの動きは容易にわかるはずだ。
主郭を後にしてスロープを下りて行く。
スロープを下りた辺りは堀切となっていた。
二の曲輪との連絡は土橋があったのか、それとも橋が架かっていたのか・・・
その堀切の南側
堀切の先の方に土塁のようなものが・・・しかし祠があったので何かしらの曲輪だったのか?
堀切北側は井戸跡へと通じる
井戸跡の入口にあった姫観音と説明の碑。
この伝説のお姫様はどこのお姫様だろうか・・・大島氏の姫君か?
金の鶏も「金の卵を産み出すもの」と言う事で金脈の地図とか・・・なんてネ
姫観音のすぐ下の窪地にある、周りを土塁で囲まれたような井戸跡。
石積の井戸であったが跡なのだからか水は無かった。
上を見上げると主郭の谷間のようになっていた。
この上辺りに主郭の櫓があった。
姫観音の横をさらに北へ進むと土塁の間が虎口のようになっていた。
上を見上げると二の曲輪からの土塁と馬出からの土塁が押し寄せるような迫力で迫っていた。
馬出からの土塁は大島城北側の防御を担っていたことがよく分かる。
これで大島城内部は概ね見てまわる事が出来た。
青線が今回めぐったルート。
宮坂武男著「図解 山城探訪 第七集 下伊那資料編」より大島城縄張図
再び堀切を登り遊歩道へと戻り、駐車場へと向かった。
馬出からの土塁にそって戻ればよかったかなァ・・・
それにしてもこの三の曲輪辺りの遊歩道はおしいなぁ・・・
曲輪と土塁は削られ本来の形を失ってしまっている。
帰りは大島城南側を見ながら台城橋で天竜川を渡るルートを通ってみた。
写真左が大島城なのだがこちら側から三の曲輪下へと入って行くルートも面白そうだ。
ところで、この道路は道のために盛り上げて造ったのだろうか?
台城橋の上から主郭下の大蛇ヶ淵を見る。
川が大きく曲がっているせいか水の勢いは荒々しく見える。
橋を渡って見てみると、天竜川対岸からの攻略はありえない事が良く分かる。
大島城は天竜川に削られて突出した台地を生かした素晴らしい要害であった。
大改修によって強靭な防御力を持った大島城はなぜ戦わずに落ちたのか・・・
織田軍三万?の大軍に恐れをなしたから・・・というだけの話ではないように思える。
織田軍は伊那谷からだけでなく木曽谷からも兵を進めてきた。
木曽義昌が織田方へ寝返った事もあり木曽谷ルートからの侵入も時間の問題であった。
木曽義昌の寝返りに怒った武田勝頼は木曽を攻めたのだが失敗に終わり、木曽谷からの侵入を食い止める事が出来るかどうかが大きかったのではなかろうか。
木曽谷からの兵に高遠城を落とされてしまうと完全に甲斐への退路を失う事になり、大島城が伊那谷ルートを死守する意味が無くなってしまう。
この辺りのタイミングが非常にシビアで、早めの自落を決意したのではなかろうか。
記事「大島城」での参考文献
宮坂武男著 「図解 山城探訪 第七集 下伊那資料編」
学研研究社 「戦国の堅城」
飯田市上田考古館 「南信州の山城―戦国に生きた人びと―」
大島城 ② [城]
大手であった丸馬出から三の曲輪への虎口・・・
丸馬出のお宅の迷惑になるといけないのでちょっと離れての撮影。
新府城で見られたような大手桝形があったらしい。
写真左側は丸馬出のある三の曲輪西面の土塁・・・?
土塁より気になるのはこの旗であろうか・・・マレットゴルフのホール旗である。
マレットゴルフとはゲートボールのスティックとボールみたいなモノでで行うゴルフである。
確かに昔から知ってはいたが、特に長野県では盛んらしい。
大手から入って正面辺り。
三の曲輪は北と東に張り出したような形になっている。
三の曲輪を南からまわってみる。
写真右は三の曲輪南面の土塁で幅が広く厚い感じだ。
正面の建物は弓道場である。
三の曲輪東の端。
先端には祠があり、天竜川流域が広く見渡せる場所であった。
南東端から南下には天竜川を渡る台城橋への道が見える。
道だけ高く盛られたように見えたが、道を造る前から土塁でもあったのだろうか。
南東端から東下には掘りを区切るように土塁が見られた。
東の端から三の曲輪を深い堀伝いに進む。
掘りの向こうには東屋のある曲輪が見える。
三の曲輪は東―北のL字の曲輪になっている。
こちらが北側でその先は・・・
通路を挟んで前回①で見た馬出になっている。
掘りの向こうに見えた東屋のある曲輪へは土橋を渡って行ける。
実はこの曲輪は二の曲輪の馬出で、三角形の小曲輪であった。
土橋上から三の曲輪との掘を見る。
土橋上から二の曲輪を見る。
二の曲輪の馬出は周りの深い堀によって三角形の島のようになっている。
二の曲輪の馬出から三の曲輪を見る。
反対側の二の曲輪を見る。
二の曲輪虎口までは距離があるのだが、橋でも架かっていたのだろうか。
下に降りて掘下を歩いてみた。
三の曲輪東端の堀下まで来たがそのまま下の道路まで出られそうだ・・・行ってないけど・・・
通路へと戻り二の曲輪へ。
実際にこの辺りが二の曲輪の虎口であったらしい。
二の曲輪へ入って通路右側(南側)は遊具のある公園になっている・・・
走り出した息子とこの後三十分以上遊び続けるのだった・・・付き合ってもらってるしね。
通路左側(北側)はマレットゴルフのコースになっている。
三の曲輪との堀に面しては土塁と櫓台跡が見られた。
先ほど土橋上から見えたのはこの辺りだ。
その土塁上から二の曲輪の馬出を見る。
そしてその先の三の曲輪
通路からの二の曲輪虎口。
その先に二の曲輪の馬出が見える。
二の曲輪は通路で分断されてはいたがかなりの広さがあった。
通路を順路へ戻り、一の曲輪(主郭)へと向かう
次回へつづく・・・
青線が今回のルート
宮坂武男著「図解 山城探訪 第七集 下伊那資料編」より大島城縄張図
大島城 ① [城]
昨年末に飯田へ行ったついでに大島城へ寄ってみた・・・
行った事のある方は御存じだと思うが、ただ思いつきで行ってしまったのでは大島城は見えてこないのだ・・・自分にとってはそれほどまでにクセのある縄張であった。
大島城
中央道の松川ICを下りて道なりに県道59号線を下って行くと「上新井」の信号で国道153号線と交差する。この上新井の信号を右折して国道153号線を飯田方面へ向かって行くと左手に「台城公園」への案内があるので、後はそれに従って進んで行くと大島城へ行ける。
「大島城」は「台城」とも呼ばれ現在では台城公園となっている。
大島城縄張図(赤線は遊歩道として開けられた道)
航空写真とともに見比べてみると様子が分かる・・・かも(どちらも北を右にしてあります)
宮坂武男著「図解 山城探訪 第七集 下伊那資料編」より大島城縄張図
大島城の見所でもある大手の丸馬出と二重の三日月掘。
武田氏の大改修によって武田流築城術とも言われる丸馬出が造られた。
現在丸馬出には民家があるので深入りするのは避けた。
写真の駐車場の先にある民家の位置が丸馬出になる。
そして駐車場から台城公園への入口が開けられ、遊歩道が通されている。
「大島城跡」の標柱のある場所に「馬出し」とあった。
縄張図の6の曲輪で独立した小さな曲輪である。
学研の「戦国の堅城」では大手丸馬出への攻撃に対する伏兵曲輪と解説されていた。
その馬出上に登ってみた。
西から北面を覆うように土塁が見られる。
馬出上から南西側に三の曲輪を見る。
遊歩道が通る前の様子はどうだったのだろうか・・・
馬出上から南側を見る。
手前に三の曲輪から延びる土塁状の畝が延びていて、その向こうには二の曲輪が見える。
馬出の先と三の曲輪から延びている土塁は東へ曲がりながら延びている。
馬出からの土塁は大島城北側からの防御を担っているのか?
この辺りの独特な縄張りが悩ましい。
遊歩道を通って見て行くとよく分からないので、
大手を入った三の曲輪辺りから順を追って見て行こうと思います。
次回へつづく・・・
古田城 [城]
かつて粟沢城で見た石碑に・・・後に小泉山を背負い 諏訪平を前方に望む景勝の地で 柳川をへだてて古田城 上川をへだてて鬼場城と対する・・・とあった。
鬼場城は地元でも比較的メジャーなのだが、古田城はほとんど知られていない。
今回はそんな古田城へと行ってみたいと思う。
今では八ヶ岳総合博物館となってしまっている高台が古田城であったという。
この辺りは下古田(しもふった)という地区で古田城も「ふったじょう」と呼ぶようだ。
古田城跡に建てられた八ヶ岳総合博物館
とはいうもののもともと遺構らしいものも無く、発掘でも中世のものは発見されなかったという・・・
古田城とは幻の城なのか・・・
古田城から西側に見られる鬼場城
古田城付近からの小泉山。南東方面に見られる。
黄丸で囲ったあたりに古田城の主、古田(ふるた)氏の屋敷があったらしい。
「ふるた」になったり「ふった」になったり書いていてもモヤモヤする・・・
小泉山から西に延びている高台の先端に粟沢城が見られる
なにかしら遺構があるのか、地形の西端へ行ってみよう・・・
調査してなにも無かったのだからあるワケ無いけど・・・興味だけで・・・
この辺りは建設前から平坦であったらしい。
今では自然観察の場となっているようだ・・・冬だから何も無いけどね。
さらに西端へ向かう・・・植樹などで綺麗になっている。
古田城の高台の西端・・・だがザックリ切り取られている。
向こう岸に祠らしきものを発見!
祠があって残したのか、土地の所有権の関係で残したのか、不自然な残し方だ。
古田城の北斜面。
こちら斜面はかなりきつい。
・・・新しい発見があるわけも無く、博物館へと戻って行った。
古田城の回りを周って見てみよう。
国道152号線側から古田城を見る。
祠のあった側の部分
南側からの古田城
西端から舟形の高台になっているようだ。
地形的にも地勢的にも城があってもよさそうな場所ではある。
古田城とはどのような城だったのだろう・・・
応永七年(1400)の信濃守護職小笠原氏と有力国人領主の連合軍との間に起こった合戦である「大塔合戦」に出陣した諏訪勢の中に見られる古田氏の城であると伝えられているそうだ。
古田氏は諏訪社に属していた十四人の小祝の一人で神氏の一族であり、この辺り一帯に大きな勢力をもった豪族で古田城はその本拠地であったという。
その後、古田氏は諏訪社の下社権祝となり、この地を離れたそうだ。
粟沢城の石碑に鬼場城と共に記されていたので、他の城同様に中世後期まで使用されていたのかと思ったが、古田城は早くに城としての機能は廃されていたのかもしれない。
参考文献
宮坂武男著 「図解 山城探訪 第一集 諏訪資料編」
苗木城 ④ [城]
いよいよ最上部の苗木城本丸へ
登って行くときの岩にも柱の建っていた跡が見られた。
溝に切られている跡は何だろうか?
本丸に到着
先ず目に飛び込んできたのは巨岩に梁組された懸造の天守台であった。
三階床面部分を一部復元して展望台としている・・・三階?
案内を見るとどうやらこういうことらしい
三階 「天守」 9m×11m
二階 「玉蔵」 6m×6m
一階 「天守縁下」 4m×5m
の三層の天守であったようだ
建物を乗っけて見せるより、この見せ方は好感が持てる・・・維持・管理も楽だろうしね。
柱は既存の柱穴を利用して建てられているという。
展望台となっている床面の西側は梁だけになっていてその構造が見られる。
もしここが床面になっていてこちらから下を見下ろせたら相当怖かったのかも・・・
展望台・・・天守から西には笠置山が見られ、木曽川にかかる城山大橋、その先の美恵橋までも見られる・・・晴天だったらなぁ・・・
北西方向には城下、苗木の町が見える。
東には木曽川の流れと中津川の町が見られる。
木曽川を渡ってこちらを攻めるというのは相当大変であろう。
展望台を下りて本丸を見まわす。
本丸西の天守のすぐそばには苗木城址碑があり城歴が漢文で書かれている・・・多分
本丸北側からは眼下に大矢倉跡が見られる・・・インカの遺跡みたい。
本丸北東には柿の木が・・・命懸の柿・・・
本丸南東にはここから見られる山々の案内が。
「あれが恵那山かぁ~」
眼下には木曽川とその先に中津川の街が広がる。
本丸と天守からの眺めは本当に素晴らしく、ここに城を置いた意味が分かった気がした。
今来た道を戻って苗木遠山史料館へと向かった・・・ん?
あの鳥居は何だ!?
史料館すぐ上に鳥居があり、奥には巨岩の見える小山が・・・何かあるな。
皆には先に行ってもらって独り山中の参道を登って行く。
正面岩の下には手水があり気持ちを落ち着かせて手を清める。
さらに少し登ると参道は岩の切れ目へとつづいている。
神社への参道の反対側には石積や土橋などがある曲輪らしき場所が見られた。
位置は足軽屋敷跡、龍王院跡からの地続きである。
参道へ戻り神社へと向かう。
神社への登りは巨岩を削って石段にしてあった。
最上部の神社に到着
現在は高森神社であるが、かつては砦であったようだ。
この旅の安全を祈り、皆の待つ史料館へ・・・
苗木遠山史料館で城歴などを学び、復元模型で在りし日の苗木城を想像する・・・
できれば始めに見ておきたかった・・・
先ほどまで見てきた城跡からは想像できない異様な姿が復元模型で見られるのだ。
苗木城は別名を赤壁城と呼ばれたように建物も城壁も赤土の壁であった。
さらに狭い土地に懸造でこれでもかと建てられている姿はまさに土の要塞である。
史料館でもらった資料などから城歴をまとめてみよう。
岩村の遠山氏ともリンクしてくるので合わせてみてみよう。
加藤景廉が遠山荘地頭となり、長男・景朝が遠山荘へ移り住み遠山氏を名乗った(岩村遠山氏)。そして岩村遠山氏を主流として恵那郡全域に勢力を伸ばしていった。
大永6年(1526)高森山に高森城(後に苗木城)が築城し、一雲入道(遠山昌利)の子・遠山景徳(景長)が城主となり、苗木遠山氏が植苗木(福岡地区)から移り住んできた。
弘治元年(1555)頃、岩村の遠山景任の弟・直廉が苗木城主となる(苗木へ養子か?)。
永禄8年(1565)織田信長は遠山直廉の娘を養女として武田勝頼に嫁がせ婚姻関係を結ぶ。
ちなみにこの遠山夫人は嫡子・信勝を産んですぐに亡くなってしまった。
元亀3年(1572)5月に遠山直廉が没すると織田信長の命により飯羽間城主の遠山友勝が苗木城主となる。同年8月には岩村の遠山景任も没し、信長は五男・御坊丸を養子にした。
このように織田信長は美濃を固めたのだが、その期を武田信玄が逃すはずもなく、秋山虎繁(信友)を大将として美濃へ侵攻してきた。この時岩村城は武田方に落とされた。
天正2年(1574)信玄亡き後を継いだ武田勝頼が再び美濃へ侵攻してきた。そんな最中に遠山友勝が逝去し、その子・友忠が苗木城主を継いだ。
武田軍によって東濃は苗木城のほかはすべて落とされ、遠山氏は多くの一族を亡くしてしまった。
またこの戦いで遠山友忠も二子を失ってしまった。
天正3年(1575)長篠の戦で武田軍が大敗すると、織田信長はただちに岩村城攻略に取り掛かり、半年ほどして岩村城が落ちると美濃は再び織田の支配下となった。
天正10年(1582)本能寺の変がおこり、翌年 苗木城は金森城の森長可によって攻められ落城する。岩村城を含め一帯は森氏の支配下となった。
苗木城主であった遠山友忠・友政親子は徳川家康を頼って三河へと逃れた。
慶長5年(1600)森氏は川中島へ転封となり、代わって川尻直次が苗木城へ入った。
しかし8月には関ヶ原の戦いに先立ち徳川家康の命を受けた遠山友政によって奪還された。
9月には岩村城をも無血開城させた。
その後苗木城は徳川幕府下の苗木藩となり遠山氏によって明治まで治められた。
残念ながら岩村城へは大給松平氏が入り、遠山氏の旧領回復とはならなかった。
・・・こんな感じかな。
岩村城、苗木城と明治まで残った稀な山城を見てきた。
土の山城ばかりを見てきた自分にとっては新鮮で驚きの連続であった。
藩の中枢として、また藩のシンボルとして雄大で美しい姿を維持していたであろうこれらの城を想像しつつ、今回の城めぐりの旅を終えるのであった・・・
そういえばじいさんは下りの石畳が苦痛だったって言ってたなぁ・・・
去年は海ノ口城で大変だったしなぁ・・・
来年からは平地の城郭かな。
記事「苗木城」での参考文献
宮坂武男著 「図解 山城探訪 第十八集 美濃・三河・遠江・飛騨資料編」
苗木遠山史料館発行資料 古い遠山氏の歴史
苗木城 ③ [城]
綿蔵門から本丸へと登って行く。
眼下に二の丸の礎石群が見える。
しばらく登って綿蔵門の礎石を見る。
二階部分が綿蔵だっただけあって礎石の配置も相応しい。
綿蔵門から登って左に折れると坂下門跡がある。
案内には坂道の下にあったので・・・とあった通り門をくぐってすぐに坂がある。
別名・久世門と呼ばれ、三代領主遠山友貞の奥方の実家で徳川譜代の名家・久世家に由来する。
苗木城改修の際に力添えがあったようだ。
坂下門の礎石
二脚の門であった。
坂下門から緩やかに右に折れながらしばらく登ると菱櫓門跡がある。
案内がなかったので由来は分からないが、菱櫓門とあるからそれなりの形の櫓門であったのか?
菱櫓門の礎石・・・
礎石らしい石のある段が二段あり、下の段は他の段に比べ角の出た形になっている。
菱櫓門から登って右に折れると少し開けた場所に出る。
ここに本丸の的場跡がある。
実はこの辺りから帯曲輪が本丸を周っていて二の丸からの帯曲輪と通じているらしい・・・
的場から本丸の高石垣を見上げる。
下を見ると大矢倉の見事な石積が見える。
的場のすぐ近くに本丸口門跡がある。
本丸口門の礎石
坂下門同様に二脚のであったろうか?
本丸口門から石段を登りきると武器蔵、具足蔵の跡がある。
案内によると地面の赤い部分が武器蔵跡で、八間(16m)ある土蔵であったという。
具足蔵跡は本丸口門から登り切った角にあり、領主の具足や旗などが収められていたそうだ。
武器蔵の先は三叉路となっていた。
写真右へ行くと笠置矢倉跡・真直ぐ行くと馬洗岩、左へ行くと玄関口門から本丸へと通じる。
順番に見てみよう。
三叉路の右側は笠置矢倉跡
案内によると懸造で床下合わせて三層の櫓であったようだ。
笠置矢倉跡からの眺望
三叉路正面へ行くと”超巨岩”馬洗岩の脇を通って・・・
その反対側へと出た。
案内によると周囲45mもあるという馬洗岩、その名の由来はかつて苗木城が攻められ水の手を切られた時に、この岩の上に馬を乗せて米で馬を洗い水が豊富にある事をアピールして敵を欺いた事による・・・という。戸石城の米山にも似たような伝承があったなぁ・・・
資料では写真の石段を行けばここからも本丸へと行けるらしい。
三叉路を左へ行けば玄関口門跡がある・・・
九十九折の坂道を登り、いったい幾つの門を通ったろうか・・・
その先を右に曲がって行くといよいよ本丸である。
石垣のある右側を見上げると・・・
言葉にならない・・・巨岩と石積と懸造の梁組の造形に目を奪われる。
右側へ曲がりながら石段を登って行くと左手に台形の曲輪があり、礎石らしい石も見られた。
位置的に的場から見上げた石垣の上である。
えらい高い所へ来たなぁ~
本丸・・・と思いきや、本丸一段下の曲輪・・・いや、ここを含めて本丸か?
とにかく、これを登れば最上部のはずだ!
次回へつづく