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岩櫃城 [城]

真田幸隆が上州侵攻を目論む武田信玄の命を受け攻略した岩櫃城。
甲斐の岩殿城とともに双璧ともいえる天険の要塞。
今ではこのような立派な御殿がふくげ・・・ん?
岩櫃城温泉.jpg
町・営・岩・櫃・城・温・泉・く・つ・ろ・ぎ・の・館・・・あ~あ~あれね!
真田幸村もよく入ったって言う真田一族の隠し湯的な・・・ウソです!
ここは岩櫃城温泉くつろぎの館という素敵な外観の温泉施設でした。

さてさて、名胡桃城前の信号から県道36号線を使って国道145号線へと抜けると中山の信号に出る。この交差点を長野原・中之条方面へと向かいひたすら国道145号線を走る。
ちなみにこの中山の交差点からわずか進んだ辺りに中山城があった。
国道145号線をひたすら進み吾妻線群馬原駅を越えて橋にかかる手前の左手に岩櫃城とコニファーいわびつ入口の看板があるのでそちらへと入って行き・・・あとは細い山道を、集落の中をカーナビにまかせて進むと駐車場に辿り着いた・・・カーナビゲーション様々だ。

山城の駐車場がこれほどに整備されているとはおどろきだった。
駐車場.jpg
赤い矢印が登城口(登山口)で後ろに見える山が岩櫃山。
早速 岩櫃山登山口から登城だ!
岩櫃山登山口.jpg
写真左側の登山口の小屋には岩櫃城のパンフレットがあったのでそれを手に登城しよう・・・
準備した資料は車中にて待機!・・・トホホ
今回の岩櫃城めぐりルート
岩櫃城之図.jpg
登り始めは整備された道であったがちょっと入るとこんな感じ。
岩櫃城へ登城.jpg
先に訪れた沼田城や名胡桃城とはひと味もふた味も違うので子供達も「本当にここ登るの~」
こんなところに朽ちた空堀の案内板が・・・堀跡が登山道とはまさに城攻め体験!
岩櫃城登り空掘.jpg
どんどん山へと吸い込まれて行く様な怪しさに子供達も「本当にこっちでいいの~!」
登り途中の左側には段郭の様な場所があり志摩小屋(水曲輪)とあった・・・
でも写真はブレブレ~息があがってたのかしら?
水曲輪は今登っている堀左の岩櫃城北下の段郭で、
志摩小屋は水曲輪北に堀を挟んである長大な段郭であるようだ。
登りはさらにきつくなり整備された階段も現れてきた。
岩櫃城登り階段.jpg
そして子供達はぶんぶん登って行く・・・これが若さか・・・
登り続けていると岩肌と空が見えてきた。あれが本丸か?
岩櫃山の岩.jpg
どうやらここで登山と登城とは道が別れ、本丸はこちらの先のようだ。
本丸を目指す.jpg
岩櫃城本丸へは0.1kmで山頂へは0.9km・・・この距離なら山頂へも行ってみたい!
でも登りのこの距離は条件にもよるが割と時間がかかるので野望は有るか分らぬ次回へ・・・
そうしてしばらく進むと再び案内が。
木立の先に先ほど見上げた岩山が見える。向こうは城ではないようだ。
本丸を目指す2.jpg
山頂からは離れもうすぐ本丸だ。
ここから急坂を登るといよいよ本丸だ。
登り切って先ほどの案内を見降ろすと手前がクランクしているのが分かる。
本丸北西虎口.jpg
このクランク状になっている所は枡形の虎口になっていたらしい・・・帰ってきてから知ったのよね
そして登りきったところは、ついに到着 岩櫃城本丸!
岩櫃城本丸.jpg
いやいやさすがの堅城、登った登った!山城はこうじゃないとね!
北側が開けていたがこちらは全体に標高の高い方面なのでそれほど高低差は感じない。
本丸から北側.jpg
今来た道を振り返ると・・・ん? 本丸に入って歩いて来たのは土塁の上だったのかしら?
本丸北西虎口方面.jpg
反対側の一段低い場所には東屋がある・・・
本丸東端.jpg
どうやら岩櫃城本丸址の標柱と案内板のあった場所は一段高くなっていて櫓台か屋敷跡らしい。
本丸に入って歩いて来た土塁状の道はどうやら櫓台から延びていた土塁のようだ。
岩櫃城本丸2.jpg
やはり用意した資料は持ってくるべきであった・・・興奮するとダメね・・・
本丸南側から下へと延びる竪掘。
本丸からの竪堀.jpg
この辺りは複雑に堀が入組み城下方へと延びている。
そんな堀跡をたどって行くと本丸東側の一段下にある二の丸へと出る。
二の丸.jpg
本丸の広さから見るとこんなものか?といった印象も受ける。
二の丸から竪堀を伝って下へと降りて行く。
二の丸から竪掘.jpg
こちらの傾斜の方が登って来た道よりも歩きやすい。
二の丸から竪掘2.jpg
←中城方面と→御殿方面への分かれ道へ到着・・・今回は時間の都合で中城方面へ・・・ん?
中の城端の分岐.jpg
熊出没注意!?もっと早く言ってぇ~ガクガク・・・
熊出没注意.jpg
辺りを気にしながら大声で歌を歌いつつ中城を通過・・・丘~を越~え~ゆこ~よ~
中城.jpg
口~笛~吹きつ~つ~・・・うるさい? 中城は台形状の広い郭であった。
先へ進むと先ほど下ってきた堀の対となる竪堀が見られる。
中城反対側堀.jpg
中城から林を抜けてスタートの登山口へと戻る。
中城からの道.jpg
駐車場へと戻ってからすぐ隣の小高い天狗の丸へと行ってみる。
天狗の丸.jpg
天狗の丸は畑となっており正面の林が岩櫃神社となっていて地図上の目安ともなる。
天狗の丸より麓の原町方面を見る。
天狗の丸からの原町方面.jpg
原町が整備されたのは岩櫃城が廃城になってからのようで、それまではこの天狗の丸脇の道を先に行った平川戸という辺りに城下を形成していたようだ。その出入り口である東の木戸跡も残っているそうだ。
天狗の丸より岩櫃山を見る・・・あの山頂が本丸でなくて良かったか・・・
天狗の丸からの岩櫃山.jpg
岩櫃山から左側に延びている平らな部分が岩櫃城となる。
岩櫃山.jpg
良く見るとちょいちょい岩が突き出しているのね。

岩櫃城登山口の小屋で手に入れたパンフレットから城歴などを紹介しよう。

岩櫃城は岩櫃山(標高802m)の中腹東面に築かれた典型的な中世の山城です。頂上より約200m下がった場所(標高593m)に本丸・二の丸・中城があり、この場所を中心に広い範囲を城域としています。また、近くに2つの支城、北東側に柳沢城と岩櫃山南側に郷原城を持っています。通称バンジョウ坂を東端とし、西側は本丸のある中心地から距離にして400mほど上がった所を端としています。この東西を両端とする北東方面へ1.9km延びる尾根線上に主たる遺構があります。南側は切沢の谷を自然の堀にして南西の境とし、南東側は岩櫃山の山裾の斜面を壁面として、さらに吾妻川を自然の堀に活用し、限界としていると考えられます。北側は不動沢が境界線となっています。

岩櫃城の歴史
岩櫃城は年代は定かではありませんが、南北朝の頃築城されたと考えられています。城郭の規模は136haと上州最大規模を誇り、後に甲斐の岩殿城、駿河の久能城と並び武田領内の三名城と称されました。この城の城主として最初に名前が出てくるのが吾妻太郎行盛です。行盛は南北朝時代、南朝方の里見氏に攻められ吾妻川原において自害したという伝説があります。その後行盛の子千王丸(斉藤越前守憲行)が北朝方の上野守護上杉憲顕氏の支援によって岩櫃城を奪回し、その子孫が戦国時代までこの城を本拠として東吾妻を支配しました。
 永禄六年(1562)武田信玄は上州侵略のため、家臣真田幸隆に岩櫃城攻略を命じました。ときの城主は吾妻太郎行盛から数えて六代目の吾妻太郎斉藤越前守憲広(基国)といわれ、堅城を利して奮戦しましたが、ついに落城してしまいました。こうして岩櫃城は武田氏の手中に落ち、信玄は幸隆に吾妻郡の守護を命じました。
 天正二年(1574)に幸隆が世を去り、岩櫃城主には長子の信綱が収まりましたが、翌年、長篠の戦で信綱、昌輝兄弟が戦死したため、真田家は幸隆の三男、昌幸が相続しました。その後、昌幸の長男信幸が支配し、信幸の弟幸村も少年時代をこの城で過ごしたと言われています。
天正十八年(1590)北条氏が滅亡し、一度北条氏の支配下に置かれた沼田は再び真田氏の支配になり、信幸は初代沼田城主となりました。岩櫃城は沼田の支城として吾妻郡統治の中心としての役割を果たしました。
 慶長五年(1600)関ヶ原の戦いでは、昌幸(西軍)と信幸(東軍)は敵味方に別れました。このとき岩櫃城は昌幸の叔父矢沢頼綱が城代となり、信幸方の城となっています。そして、幾多のドラマの舞台となった岩櫃城も徳川家康が発した一国一城令(元和元年)により、四百年余りの長い歴史を残し、その姿を消しました。

そういえば名胡桃城の案内をしてくれたおじさんが岩櫃城付近のどこかに武田勝頼を迎えるための御殿跡が潜竜院に残っているって教えてくれたなぁ・・・
このパンフレットにしっかり記載されていました。


でも時間の都合で今回の岩櫃城の城めぐりはここまで。


駐車場へ戻り次の目的地へと向かう。
いよいよ鳥居峠を越えて真田の庄へと向かうのだ!
ちゃっちゃと一時間もあれば着くかな?とカーナビの到着予定時間を見ると・・・二時間!?
急がねば日が落ちる~冬の落日は早いぞ~!


小説『真田太平記』では・・・
真田の草の者(忍者)が砥石城~岩櫃城へあっさり情報を伝えていたぞ!?
ドラマでは残像の残る速さで駆け抜けてFAX張りに書状渡してたぞ・・・はいはい・・・
小説だし、ドラマだしね~現実は車で二時間ね~そりゃそうだ。

武田家上州侵略の拠点として真田幸隆が攻略し、
武田家滅亡後は真田家自立を支えた堅城・岩櫃城
武田勝頼が岩殿城へ行く事を選ばずに、ここ岩櫃城へとやって来たのであれば
歴史は変わっていたのであろうか。
家中のゴタゴタで弱っているとはいえ現時点での同盟者・上杉景勝の領地に近い岩櫃城へ逃げ込んだ方がまだ打つ手もありそうとも思えるのだが、
実際の事情は歴史のもやもやの中、我々にはわからない。
もしかしたら都留から北条領・八王子へと抜けて、本当に土佐へと渡って行ったのか・・・
岩殿城へ向かった武田勝頼一行は小山田信茂の裏切りに遭い都留郡へと入ることを拒まれ、天目山の田野にて自刃し武田家は滅亡した。
それを知った『真田太平記』での真田昌幸は複雑な怪しい表情をする。
もしかしたら真田の家、真田の領地領民を守るためには同じ事をしていたのかも・・・
という含みにも思えるシーンがある。
その後の真田昌幸は混沌とした情勢の中、見事に自領を守り抜いてゆくのだ。


国道145号線へと戻り信州上田を目指す・・・?
あっ!岩櫃城といえばの岩櫃山の岩っぷりを撮ってな~い!!
岩櫃山2.jpg
大急ぎで車窓よりその姿を納めるのだった・・・


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ねじまき鳥

武田の三大山城ですね。
岩山がすごい。
でも縄張り的にはどうなのかなぁ。
by ねじまき鳥 (2014-01-04 21:58) 

俺の城!

>ねじまき鳥さん
コメントありがとうございます。
岩櫃城といえばの写真は岩山が多いですが
実際は城の背後の盾みたいなものですかね。

学者ではないので縄張り的な事はよく解りませんが
どの山城に立ってもそれぞれに歴史を感じ
その地形や遺構などと縄張り図を照らし合わせて
在りし日の城の姿に思いを馳せるのが私の楽しみ方です。

岩櫃城も真田氏のファンとしても山城好きとしても
なかなかに楽しめましたよ。
by 俺の城! (2014-01-05 08:47) 

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